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浅野:英語教育批評:大学センター試験問題(英語)は意地悪だ

Posted on 2009年1月27日

 受験者数が40万人を超える「共通テスト」の問題を作るのは大変なことはわかる。しかも、客観テストの問題というのは、選択肢の作成がとても難しい。過日、朝日新聞の投書欄に、世界史担当の高校教員が「記述式の出題がなぜないのか」と問いかけていたが、センター入試の歴史や目的に関して無知な者の意見だという感じがした。
 そもそも、この試験は「共通一次試験」(1979年から)を母体にしているのでわかるように、「(各大学が行う)二次試験」を前提にしている。その二次試験では、なるべく受験者の表現力や創造力などをみるような方式を採用することになっていたのである。実態は、難問奇問を含む学力テストに偏っていた。やはり大学には、自己改革はあまり期待できなかったのである。
 ところで、受験世代の数の減少とともに、大学や短大は、定員を超える応募者の集まるところと、定員を満たすことに汲々とするところとに二極化されてきた。「偏差値問題」がその傾向に拍車をかけた。そうなると、全国規模の共通テストも、その性格を再考する必要性が生じてきて、「高校修了の資格試験」とする動きもみられた。資格試験であれば、高校のカリキュラムの到達目標を基準にすればよいので、何人合格するかは問題にならない。合格率が8割でもむしろ望ましいわけだ。これはまだ決まったことではないが、入試問題の出題者は社会と時代の変化に敏感であらねばならぬ。
 センター入試の問題が「意地悪だ」と思うのは、出題者に「選抜試験」の意識が依然として強いと思えるからである。例えば、発音問題にしても、1文に6つも強勢の印をつけて、どれが最も適切か、などと問うのは、「落とす」ための意地悪な問題だ。どの語を強調するかは、状況や発話者の心理によるので、規則から覚えさせるのは難しいい。また、I couldn’t agree more. を含む選択肢を正答として選ばせる問題もあるが、「仮定法」を問題にするならば、もっと基本的なことを問うてほしい。このような表現を知らなくても、受け入れてくれる大学はたくさんあるのだから。それと、長い選択肢を読ませる問題も避けるべきだ。微妙なニュアンスの違いが感じられて、迷いだしたらきりがない。高校修了時の英語力は、もっと単純明快に測定してもらいたいと思う。
(浅 野 博)

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