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浅野:英語教育批評:「無意識に使い分ける」ということ

Posted on 2009年3月2日

 NHK テレビの「気になることば」で、「数字の9はどう読むか」ということを取り上げていた。アナウンサーは「2009年」を「にせん“く”ねん」と言うらしいが、一般の通行人に尋ねると「“きゅう”ねん」と言う人が多い。確かにニュースでは、「2009年度予算」は「“く”ねんど」だ。しかし、「台風9号」は「“きゅう”ごう」だ。「三三九度」を「“きゅう”ど」と言う人はまずいない。理屈はわからないが、そういう言い方は耳にしたことがないからだと思う。そこが、母語としての言語習得の強みだ。番組では、「私たちは無意識に使い分けているんですね」と言っていた。
 数日後には、「行く」は「いく」か「ゆく」かを問題にしていた。これは人によって差があるようだ。国語辞典でもそうだが、「いく」は口語的、「ゆく」は文語的という区別があるという。これも、一定の決まり文句では、どちらでもよいというわけではなく、「行く年くる年」「去り行く夏」などは「ゆく」と言うほうが普通だ。「どちらを使いますか」と問われると迷うが、日常は無意識に使い分けている。
 この「使う」というのは、「遣う」という漢字もある。どちらでもよいようだが、昔は区別をしていた。「小遣」と「小使」では意味が違う。「よい」も「いい」もどちらもある。戦後の日本語には「どちらでもよい」という語法が多くなった。教育の普及のための簡易化だ。でもこれは日本語の乱れのきっかけともなってしまった。異常気象で草木や動物にも異常現象が生じているように、母語を育てる環境が破壊されてきている。
 そこで、意識的に学ぶ第2言語としての英語などでは、逆に厳しさを追求しがちだ。複数形のS を落とすだけでも試験では減点される。実際には教育効果はあまりない。現に日本映画がオスカーを受賞したことで、日本人レポーターの多くは「コングラチュレーション」「デパーチャー」と言っていた。「ことばの習得には「どちらでもよい」という適度の“ゆとり”があることが望ましいのだが、学校では「日本語はいいかげんに」「英語は厳密に」と両極端になっているのではないか。これでは「日本語もダメ、英語もダメ」という人間しか育たない。
(浅 野 博)

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