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浅野:英語教育批評:「なぜ指導要領批判か?」について

Posted on 2009年6月30日

 もう 30 年以上も前のことだが、ある県の英語研究会の講演で、「指導要領(英語)」の問題点を批判的に指摘したところ、後で、その会の会長から「先生は指導要領に恨みでもあるんですか」と言われて、返答に困ったことがある。会長は、文部省が決めたことは批判の余地などないと信じているようだった。こういう考えは現在でも根強く残っているように思われる。
 戦後の日本の教育は、アメリカ進駐軍の方針によって、民主化されたはずであった。日本は、まずそれを有難く無批判に頂戴したという間違いを犯した。例えば、6・3・3制などは、私はアメリカの最も優れた学制であると教えられたが、州によって制度の違うアメリカでは、むしろ少数派で、その他にいくつかの制度があることが後でわかった。第2の間違いは、何でも選挙や多数決で決めればよいと思ってしまったことだ。選挙で選ばれた人は大きな権限を得るが、そこには大きな責任も伴うという大事なことを見落としてしまったのだ。だから、代議士でも、組合の幹部でも、「おれは選ばれた人間だ」という意識ばかりが強くて、責任感がない。また、難関の入試を突破すれば、やはり「選ばれた人間」という意識が強くなる。キャリア官僚がその典型だ。そういう土壌で60年以上を過ごしてきた日本で、今度の総選挙は「地方分権」が話題の1つになりそうだが、ただ権限やお金を与えるだけで健全な地方自治が育つはずがない。
 学習指導要領の話に戻ると、これもいくつかの間違いを犯してきた。1つは、「不偏不党」の方針だと私は思う。ただし、「不党」は正確ではない。政権与党の閣僚が文部省(文科省)大臣になって、その政党の意向が強く反映されるからだ。安倍内閣の教育基本法の改正(?)がよい例だ。
 「教科の指導法では、特定なものを支持しない」というのはよく守る。だから「解説書」は無味乾燥で内容がない。実際は、文部官僚は世の中の傾向にはとても敏感なのだ。しかし、声を聞く対象を限定するという間違いを犯している。「もっと話せる英語教育を」「もっと早くから英語を教えろ」という声だけを聞いて、反対意見は完全に無視する。こういう指導要領を批判する声は、まず英語教師から挙げなければいけないのだと私は思う。
(浅 野 博)

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