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浅野:英語教育批評:「なぜ指導要領批判か?」(その2)

Posted on 2009年7月8日

 (1)前回、「文科省の大臣は政権与党の意向を反映する」という趣旨のことを書いたが、伊吹文明文科大臣のことが気にはなっていた。彼は小学校で英語を教えることに関して、「もっと他にやることがあるのではないか」と言った。これで、英語活動の導入は凍結され、「英語ノート」のために確保したはずの予算も大幅に減らされてしまった。しかし、文科省の官僚は、どうせ大臣はすぐに替わるからと、台風一過を待つようにじっとしていた。案の定、次の大臣で、「英語活動」も「英語ノート」も復活した。
(2)せいぜい1年程度の任期の大臣が替わるたびに、教育方針が大きく変わるというのは大問題ではないか。そうは考えない政治家の神経がわからない。伊吹大臣は「何をどういうふうに教えることが大事だから、それを英語より先にやるべきだ」といった説明を、私の知る限り、何もしていない。政治家の説明責任なんて、そんな程度のものだ。
(3)非論理的な点では、指導要領も同じだ。中学の英語では、「概要」は2年で、「要点」は3年で教える、ということがあった。解説書を読んでも、なぜ学年で分けるかがわからなかった。しかも、「英語の時間が足りないのだから、概要や要点がわかればいいいのだ」とさえ言う教科調査官がいたのだ。概要にしても要点にしても、内容がよく理解できてこそ捉えられるもので、適当に読めばよい、といったものではないはずだ。
(4)当時は、時間が足りないから、教科書の分量は1行でも少なくというのが、多くの英語教員からの要望だった。教科書の内容自体が「概要」みたいになっていて、「概要を捉える」もないものだ。だから、朗読や暗唱に値する文章が激減したのである。
(5)指導要領の醜態の1つは、時間数がよく変わることだ。中学英語の「週3時間」などは、多くの市町村議会が、反対や改善要望の決議をしたほどで、高校生、大学生の英語力低下の声も強くなった。しかも、私立中学の場合は、6時間も教えることがあって、ますます学力差が大きくなった。あらゆる場面で、格差が問題になっている現在では、指導要領は、A Course of Study の英名にふさわしいように、法的拘束力などない「指針を示すだけのもの」にすべきだというのが私の主張である。
(浅 野 博)

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