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浅野:英語教育批評:「題材」と教科書

Posted on 2007年7月18日

 「英語教育」2006年12月号(大修館書店)の特集は「日本人はどんな英語を学んできたか——教科書の定番教材から見て——」というもので、なかなか興味深い記事が多い。
 江利川春雄氏は、人権、人種差別、多文化主義などの観点から、時代を追っての教科書の傾向を検討している。高橋美由紀氏は、「ジェンダー政策」の観点から、中学校教科書の内容が時代によって、大きく変わってきたことを実証している。すなわち、家庭内で家事の分担をする話や、男性並みに、あるいはそれ以上に各分野で活躍する女性を主人公にした話などが扱われるようになってきているとする。
 室井美稚子氏は、高校用英語Ⅰ、Ⅱの題材の変化を統計的に紹介して、ここ数年で、日本を話題にしたものが10%から20%に増え、英語圏のものが、37%から22%に減っていると言う。そして次のようなコメント(部分引用)がある。
 「『本物の英語』という概念が消え去り、自分たちで書けばよいのだという自信と欧米の文物を受信するだけでなく、日本から発信するべきであるとの考えが、教科書に反映したのである。」(p.27)
 私は、こういう全体的な傾向そのものに反対するつもりはないが、少し異論がある。まず、他の条件は変えないで、検定教科書の内容や方針だけが変わっただけでは喜べないと思う。分量の貧弱な教科書と少ない授業時間で、いくら「発信型」の英語教育をと指導してみたところで、生徒の何パーセントが到達できる目標なのであろうか。それと、「自分なりの英語でよいという自信」というのは、「相互理解」が前提のコミュニケーションからは、ずれているのではないかということ。
 本誌では、ベトナムの小6の英語教科書は、ページ数だけでも日本の倍あるという指摘がある(p.33)。教育に関しては、日本は決して先進国ではないということを忘れないで考えていかなければならない。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「英語に強くなる」

Posted on 2007年5月1日

 こんなタイトルは、本や雑誌で何回となく繰り返えされてきたが、最近読んだ畑村洋太郎『数に強くなる』(岩波新書、2007)にあやかってつけてみた。「数」は「すう」ではなく、「かず」であるところにも特徴があるのだが、学科としての数学は英語と似ていて、得意な生徒と嫌いな生徒がはっきりしている。ただし、英語は学び始めるときは、ほとんどの生徒が強い関心を示すのに、1年もすると嫌いな生徒が急増する。数学の場合は、小学校から学んでいるが、小数や分数が出てくる頃から計算の好き嫌いがはっきりするようだ。そこで、この書物には次のような箇所がある。

 学校でも会社でも、「計算は速く正確にやれ」「厳密な答えを出せ」とばかり言われる。そうして、みんな頭がくたびれて、いつしか数がキライになっていく。「それはあまりにモッタイナイことだ」と筆者は思うのである。(p. 12)

 英語も同じように、「誤りを恐れずに話しなさい」と教室では言いながら、試験になると少しの間違いでも減点する教師が多い。指導者の態度や考え方でずいぶんと「英語嫌い」は救われるはずだ。しかも、「数」も「英語」も社会が必要だと要求している。
 しかし、問題はもっと深いところにあるようだ。「英語教育」(大修館書店)2007年5月号で、江利川春雄氏の「英語教育時評」は、結びで「すべての子どもたちに外国語の基礎力をつけさせたい。そう願うならば、指導法の改善にとどまらず、足下に広がる格差社会の解消に向けて取り組みを強めなければならない」と述べている。しかしながら、「民主主義社会」を肯定するならば、どうしても「格差」が生じるのはアメリカが実証済みだ。徒競走のように出発点だけは平等にしようとはしているが、貧富の差はきわめて大きい。日本も似たような社会になってきた。それにどう取り組めばよいのか。選挙は確かに有効な手段だ。でも日本では有権者の四割程度しか投票による意思表示をしない。考え出したら悩みはつきない。
(浅 野 博)