言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「英語に強くなる」

Posted on 2007年5月1日

 こんなタイトルは、本や雑誌で何回となく繰り返えされてきたが、最近読んだ畑村洋太郎『数に強くなる』(岩波新書、2007)にあやかってつけてみた。「数」は「すう」ではなく、「かず」であるところにも特徴があるのだが、学科としての数学は英語と似ていて、得意な生徒と嫌いな生徒がはっきりしている。ただし、英語は学び始めるときは、ほとんどの生徒が強い関心を示すのに、1年もすると嫌いな生徒が急増する。数学の場合は、小学校から学んでいるが、小数や分数が出てくる頃から計算の好き嫌いがはっきりするようだ。そこで、この書物には次のような箇所がある。

 学校でも会社でも、「計算は速く正確にやれ」「厳密な答えを出せ」とばかり言われる。そうして、みんな頭がくたびれて、いつしか数がキライになっていく。「それはあまりにモッタイナイことだ」と筆者は思うのである。(p. 12)

 英語も同じように、「誤りを恐れずに話しなさい」と教室では言いながら、試験になると少しの間違いでも減点する教師が多い。指導者の態度や考え方でずいぶんと「英語嫌い」は救われるはずだ。しかも、「数」も「英語」も社会が必要だと要求している。
 しかし、問題はもっと深いところにあるようだ。「英語教育」(大修館書店)2007年5月号で、江利川春雄氏の「英語教育時評」は、結びで「すべての子どもたちに外国語の基礎力をつけさせたい。そう願うならば、指導法の改善にとどまらず、足下に広がる格差社会の解消に向けて取り組みを強めなければならない」と述べている。しかしながら、「民主主義社会」を肯定するならば、どうしても「格差」が生じるのはアメリカが実証済みだ。徒競走のように出発点だけは平等にしようとはしているが、貧富の差はきわめて大きい。日本も似たような社会になってきた。それにどう取り組めばよいのか。選挙は確かに有効な手段だ。でも日本では有権者の四割程度しか投票による意思表示をしない。考え出したら悩みはつきない。
(浅 野 博)

Comments (0) Trackbacks (0)

Sorry, the comment form is closed at this time.

Trackbacks are disabled.