言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:国語教育の改革とは(その2)

Posted on 2006年10月27日

 日本人には「欧米式の読み方」つまり「論理的で批判的な読解力」をつける必要があるということを主張している三森ゆりか氏(9月27日)と有元秀文氏(10月19日)の書物に言及した。ところで、石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書、2005)は、この2冊と違って、実際に使われている採用率の高い国語検定教科書を分析しながら、国語教育のあり方を論じている。そして「強いられるコミュニケーション」と題する節があって、中学校の教科書では、「意見を表明する」「ディスカッション」「ディベート」などの言語活動が用意されていることついて次のように述べている。

 これだけ「伝え合う」活動に比重が置かれたこの教科書に沿って、慌しく「伝え合う」授業を繰り返していったのでは、たとえば「内省」といった自分自身とじっくり向き合う高度に文学的な(「教養的な」と言うべきかもしれない)営為を行う時間的なゆとりも、正当性も奪われてしまうだろうと言いたいのである。(p.149)

 有元氏の書物では、国語の授業では「コミュニケーション」が軽視されてきたから、「もっと話し合いを」「もっと交流を」と主張している。こういう相反する指摘は、私はそれぞれ間違っていないと考える。つまり、ほとんど話し合いのない講義式の授業もあれば、「さあ、あなたはどう思う」「考えたことを話し合いなさい」といった“交流”ばかりを目指す授業も存在することは容易に想像できる。その点は英語教育も同罪である。ただ日本語に直すだけの訳読式授業もあれば、内容のない英語による問答ばかりの授業もある。こういう現状では改革は道遠しであろう。「朝読書」の時間を設けている学校も増えているというが、その効果が現れるのにはさらに時間がかかるであろう。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:国語教育の改革とは(その1)

Posted on 2006年10月19日

 国語教育にも改革の動きがあるのではないかと思って、次の本を読んでみた。

 有元秀文:「国際的な読解力」を育てるための「相互交流のコミュニケーション」の授業改革——どうしたらPISA に対応できるか——(渓水社、2006)

 ますこの表題でつまずいた。この著者の好みなのか、他の著作の表題も長いものがあるようだが、長ければわかりやすいというものではない。「『相互交流のコミュニケーション』の授業改革」はよくわからない。「国語の授業改革」とか「われわれの授業改革」ならわかる。本の中身から判断すると「『相互交流のコミュニケーション』を目指すことによって国語の授業を改革すること」と解釈すべきものらしい。
 著者のフィールドワーク的な観察や資料収集に基づく考え方と提案はかなり説得力があるが、コミュニケーション重視という面では、英語教育のほうが一日の長があるようだ。問題点の1つは、PISA (仮に「15歳児の国際的な言語能力テスト」としておく)の順位だけが絶対的な基準になるのかということである。英語教育でも TOEICや TOEFL の順位だけを日本人の英語力の基準にすることに問題があることはすでに指摘されてきた。
 国語教育の遅れは「外国人のための日本語教育」に背を向けてきたことが大きな一因であろう。『新版日本語教育事典』(大修館書店、2005)によれば、日本語教育は紆余曲折を経ながらも確実に進展していることがわかる。こういう実績を軽視してはいけない。
 なお、PISA については、石原千秋『国語教科書の思想』(ちくま新書、2005)にもくわしく紹介され、論じられている。しかし、この書の問題提起はまた別な観点があるので、それについては次回に考察してみたい。
(浅 野 博)