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「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その20)(“タスク”入門)

Posted on 2015年5月27日

(1)『英語教育』誌の2015年6月号、最初の特集は、「日々の授業に活かせる『タスク』入門」です。“タスク”という用語は、英語教員であればよく耳にすると思いますが、いざ、定義をしようとすると戸惑う人も少なくないでしょう。したがって、「まず入門してみましょう」という誘いは適切なものと思います。

しかし、最初の記事、松村 昌紀(名城大)「そもそもタスクとは何か、タスクの活用によって何が期待できるのか」を読んで、私には「タスクとは何か」ということがよく分からなくなりました。「それはお前の勉強不足のせいだ」と言われればそれまでですが、次のような文章は私にはとても理解困難です。

 

(2)「現代の外国語教育の文脈において『タスク』という言葉は、その訳語である『課題』という語が通常持つより狭い意味で用いられています。タスクとは、比較、順位づけ、合意に到る交渉など、私たちが日常言語を用いながら行っているのと同質の作業を、生徒たちに英語(より一般的には目標言語)を使って行うよう促すもので、さらに次のような条件を(すべて)満たすものです(“3つの条件”は割愛させて頂きます)。

 

(3)結局、松村氏の主張は、「実際的な英語運用能力をつけさせる必要がある」ということではないでしょうか?それなら、『タスク』という用語などと関係なく、これまでも、度々議論されてきたことです。“特集”の意図に固執しているので分かりにくい文章になっていると思います。そして、ここでは“英語教育”に限定して論じるべきでしょう。“外国語教育”にまで枠を拡げてしまうと、フランス語やドイツ語の教員が読もうとしても、失望するだけだと思います。

 

(4)私は現役の時代には、“課題”という日本語の問題として考えてきました。

『明鏡国語辞典』によれば、「課題」とは、「解決しなければならない問題」とあります。特に難解な用語ではありません。例えば、高校2年生に、「今日は“現在完了”について少し学んだけれども、良く分からなかったという人は何人くらいいるかな?」と問いかけると、7人くらいが手を挙げたとします。そして、「説明の仕方のどこが悪かったのだろうか?」と反省をして、次の授業での改善策を考えます。「英語教育」誌は、学会などの紀要論文集ではないのですから、日頃授業で行っていることを難しく表現する必要はないと思います。

 

(5)2番目の記事は、島田 勝正(桃山学院大)「教科書本文をタスク化する」ですが、私には“タスク化する”という意味が良く分かりませんでした。鹿田氏は、「コミュニケーション重視の英語教育の背景に、タスクを用いた指導法が脚光を浴びています」と書き出していますから、「実用的な英語力をつけるには、教科書をタスク化する必要がある」という主張のようで、私には、やはりよく分かりませんでした。

 

(6)小川 知恵(立教大)「タスクの効果的な設計とは?」は、小見出しの1つに、「相互交流を活発にさせたい場合」を挙げていますが、クラスの生徒を幾つかのグループに分けて、生徒同士で問答をさせるような指導をしている教員は少なくないと思います。その際に“タスク”のことなどあまり意識していないでも、上手く活発化させている例を私はよく見てきました。“タスク”を意識するあまりに、視野を狭くする必要はないと思います。

 

(7)赤池 秀代(文教大(非常勤))「教室で行うタスクを選ぶコツ」は、幾つかのクラス内の活動の例を示して、親切に書いてある記事ですが、内容は上記(7)で指摘したようなことで、新鮮さは感じられません。そうなると、今回の記事のほとんどは、編集部の意向に沿うように執筆者が苦労をしているだけで、新しい指導法の紹介とは言えない気がします。

 

(8)最後の2編は、「小学校の外国語活動」と、「評価も問題」を扱ったもので、これまでも繰り返し論じてきたことです。そして、まだ問題は山積しているのに、“タスク”のことなどを含ませたならば、指導現場は混乱するだけでしょう。編集部は英語教育の実施上、どういう問題が残されているのかを整理されて、「特集」を組まれることを要望したいと思います。本誌には、特集記事以外にも、すぐに役に立つ記事が沢山あるのですからなおさらです。 (この回終り)

日本語における「主語省略」の問題(5)

Posted on 2015年5月11日

●(2)日本文学英訳における勘違いを検討する日本文学の小説とその英訳をいろいろと見ていて、ときどき省略されている主語が英訳では誤訳されていることに気がついた。

 

そこで、太宰治の『斜陽』とドナルド・キーン氏による英訳を取り上げて、その前半の5章について、原作と英訳とを突き合わせてみた。その結果、10数か所、英語の代名詞にして30数個の誤訳を見つけた。

 

「お母さま、おいでになる?」と私がたずねると、 「だって、お願いしていたんだもの」ととてもたまらなく 淋しそうに笑っておっしゃった。

“Are you going, Mother” I asked.“I must,” she said,  smiling in an almost unbearably pathetic way. “He asked me to.”

 

適当な家をさがしてと頼んでおいたら、家が見つかったと言ってきた。だから「[私が]お願いしていたんだもの」で、英訳の最後は、  He asked me to.  → I asked him to.とならなければならない。

 

当初私は、省略の補いは文脈(コンテキスト、意味の前後関係)によってなされると考えた。じっくり読めば、読解力によって省略はわかるはずだと考えた。しかし、ドナルド・キーンさんほどの当代一流の翻訳者がどうしてわからないのだろうと、この点がどうしても解決がつかなかった。

 

何年かが過ぎて、述語(動詞+助動詞・助詞)が力を貸していることに気がついた。

 

a) [私が]お願いしていたんだもの。

b) [あちらさんが]お願いしてきたんだもの。

 

c) [私は]出かけた。

d) [あなたは]お出かけになる?

e) [彼は]お出かけになった。

 

このように述語を見れば、主語は1人称か2人称かの区別がつくことが多い。これが前後の意味関係を大いに助けているのだろう。

 

さらにもう1例見てみると。

 

「かず子がっかり。だってお母さまはいつだったか、かず子は頸すじが白く綺麗だから、なるべく頸すじを隠さないようにっておっしゃったじゃないの」「そんなことだけは覚えているのね」「少しでもほめられた事は、一生わすれません。覚えていたほうが、たのしいもの」

“I’m disappointed. Didn’t you once tell me that my neckline was so pretty that I should try not to hide it? Didn’t you?”“Yes, I seem to remember something of the sort.”“I never forget a syllable of praise addressed to me. I’m so glad you remembered.”

「そんなことだけは覚えているのね」は[あなたは]となるので、“I”は“you”にしなければならない。

 

f) [あなたは]そんなことだけは覚えているのね。

g) [私は]そんなことだけは覚えているのね。

 

述語の使い方としてf)がふつうだが、g)もダメだとは言い切れない。しかし、どちらにするかは文脈、前後関係ですぐにわかるはず。こんなやさしいのをどうして間違えたんだろうと思う。

 

「覚えていたほうが、楽しいもの」も[私]のことであって、“you remembered”とはどうしてもならない。“you”とするためには、

 

h) [あなたが]覚えていてくれたほうが、[私は]楽しいもの。

となって、述語が変わってこよう。ここも、こんなやさしいのを間違えるとは驚きだ。

 

(つづく)