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「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その19)(生徒のやる気にスイッチ!)

Posted on 2015年4月28日

(1)本号の「特集1」は、「生徒のやる気にスイッチ!動機づけ研究の成果から」となっています。“動機づけ”は、かなり以前からよく話題になった問題点だと思います。しかし、いきなり学問研究の視点から説かれても、戸惑う教員は少なくないと心配します。

 

(2)子どもから大人までよく読まれている“ドラえもん”の漫画のことを私は思い出しました。何か困ったことになると、すぐにドラえもんを頼りにする男の子のび太が主人公ですが、作者の藤子・F.・不二雄氏は、この作品に大きな教育問題を含めて、提起していると私は考えきました。

 

(3)のび太はどうして自分で問題解決をするという“やる気”を起こさないのでしょうか。いつも母親から、「部屋をかたづけなさい」とか、「宿題をやりなさ」と叱られています。この点は、“サザエサン”のカツオにも共通点があります。“やる気を起こさせる”のは、とても難しいことなのだと思います。

 

(4)最初の記事は、八島 智子(関西大)「SLA 理論から見る動機づけのメカニズム」ですが、学術論文としては価値のあるものでしょうが、前号でも書きましたように、本誌の性格や使命から言って、相応しい記事とは思えませんでした。日頃、英語教員が感じている問題点とは大きな差があるように感じられるからです。

 

(5)次の大塚 謙二(北海道壮瞥町立壮瞥中学)は、「小さな成功体験が教師と生徒のやる気スイッチを押す」という題ですが、「教師もやる気が無い場合」を前提にしているのでしょうか?教師に教える気が無ければ、生徒が乗ってくれるはずがあません。その逆も、いつも真とは限りません。一生懸命に教えても、生徒が乗ってこないことはよくあることです。生徒の小さな成功をほめてやることは、実践している教員も多いと思います。もう少し理屈の通った分かりやすい記事にしてもらいと思いました。

 

(6)次は久しぶりの英文記事です。Ema Ushioda, Motivation in the English Classroom: Global and local perspectives

まずこの記事から学ぶべきことは、視点の広さと的確さです。日常の生徒の問題でも、国際的な視点と結びつけて論じています。“教室の動機づけ”について、“その教室の教師を強力な主体者”(local agent)と位置づけています。説得力のある記事だと思いました。

 

(7)その他の9点の記事は、実践記録などとしては価値のあるものと思いますが、いずれも、「特集の“動機づけ”にこだわり過ぎている気がしました。もっと日頃の考えや実践を自由に書かれたほうが、特徴のある記事になったであろうと残念に思いました。編集部にもこのような点を再考されるよう要望させて頂きます。

 

(8)「特集の2」は、「授業見学のポイント」で、前号の続きになっています。私は、むしろこちらを「特集1」にしたほうが、読みやすくなったように思いす。研究会などで、他の教員の授業を見学する機会はよくありますし、部分的にでもすぐに真似して、実践出来るのです。本号には、そういう意味で参考になる記事もたくさんありますので、読者の方々には、「特集」ばかりでなく、全体によく目を通してくださることを期待いたします。(この回終り)

「『英語教育』誌(大修館書店)批評」(その18)(一緒につくろう! 新学期のよい習慣)

Posted on 2015年4月20日

(1)今回の特集の1つは、「一緒につくろう! 新学期のよい習慣」です。「一緒につくろう!」という呼びかけは、「生徒みんなが一緒になって」という意味だと思いますが、かなり曖昧です。「教員にも良い習慣がついていない者がいる」という皮肉のようにも取れます。いずれにしても、まず本文を読んでみることにします。

 

(2)最初は、田尻 悟郎(和歌山大)「4月の授業で何をするか」です。「目標を持たせる」「成績のつけ方を伝える」などの項目が示してありますが、前提としては反論すべきものではありません。しかし、一番大切なことは、前学年までの指導教員と違う教員が担当者になる場合でしょうから、教員の組織のことも問題にして欲しかったと思いました。これは学校によって違う結構やっかいな問題点です。

 

(3)稲岡 章代(賢明女子学園中・高)「英語で授業をどう始めるか」は、まず大切なこととして、4月にこそ「英語を楽しみながら、クラスコミュニティつくりをすること」を挙げています。

それも大切かも知れませんが、新しい中・高生を担当する場合は、「生徒一人一人の実力を知ることがまず必要でしょう。「英語は嫌いだ」と言うならば、「どうして嫌いになったのか」とか、「好きだ」と言うならば、「話すこと」「聞くこと」「読むこと」などを示して、「どういうことが、なぜ好きなのか、などを確かめる必要もあるでしょう。

 

(4)こういう時間のかかる予備調査が可能かどうか、無理であれば、その障害を除く方法を述べるべきでしょう。「英語で授業を進めること」をまず指導者がどう考えているかを示して欲しいと思いました。“英語の授業は英語で”という文科省の方針には反対意見もあるのですから、そのことにも言及してもらいたいのです。文科省の検定方針は、「公平であるべき」と主張しています。賛成意見だけを述べるのは公平ではないでしょう。

 

(5)最近は「コミュニケーション」がテレビのバラエティ番組でも話題になることがあります。用語の問題になると、広辞苑の定義が引用されることが多いようです。それは結構なことですが、「社会生活を営む人間の間に行われる知覚・感情・思考の伝達」とあって、その手段となる方法についても述べてあります。英語を学び始めて5、6年程度の生徒に期待するには重すぎる課題ですから、英語教室で安易に“コミュニケーション”を口にするのは危険だと私は思います。

 

(6)中嶋 洋一(関西外語大)「『Bタイプの学習規律』で自立学習者を育てる」は、「集団の秩序(discipline)に必要なのは One for all, all for one.. の意識である」と書き出していますが、私にはよく分かりませんでした。“社会心理学”の分野のことであろうと推測しましたが、最後まで読んでも、具体的な説明はありません。最後には、「『B タイプの学習規律』はコラボで」とあって、ますます混乱しました。学術論文であればともかく、啓蒙的使命を持った『英語教育』という雑誌の記事としては相応しくないと思いました。本誌を手にして、勉強してみようかと思うような大学生でしたら、「こんな難解なことを知らないといけないのか」と諦めてしまうでしょう。本誌の売れ行きに関係する大問題です。

 

(7)教員の“活字ばなれ”が言われて久しくなりますが、英語教員が本誌を失えば、情報交換の手段を失うことになって、孤立無援の状態になるわけです。一方、特集以外には、有益な記事が沢山あって、本誌の価値は決して失われていません。特集記事でも、1ページの短いものは、具体的で有益だと思います。今回は、特に“特集”の在り方を編集部に再考して頂きたいと要望します。

 

(8)「特集の2」は、「授業研究まずはここから・1:教案の読み方・書き方」です。むしろこちらを「特集の1」にすべきだったと思います。なお、もうずいぶん以前から、“教育法より指導法”“教案よりも指導案”ということが言われて来ました。どうして昔に戻そうとするのでしょうか?自民党の菅官房長官も、「“粛々と”は上から目線だ」と言われて使用を止めました。辞書の定義とは関係なく、用語は使われる状況によって、感情的な要素が加わるものです。“教案”と“指導案”にも似たようなことが言えるのではないでしょうか?とにかく今回は、特集の在り方に関して、編集部に再考をお願いして終わりたいと思います。(この回終り)

日本語における「主語省略」の問題(4)

Posted on 2015年4月20日

●日本語の「省略された主語」がどうしてわからないのだろう?

 

以前、こんな話を書いた。日本語のように動詞が文の最後に来る「SOV言語」と英語のように目的語などが動詞のあとに来る「SVO言語」では、前者が47%で、後者は32%だ。世界のたくさんの言語の中で決して日本語は特殊な言語ではないと。

 

主語の省略についてはどうだろうか。日本語は主語を省いたりして曖昧で特殊な言語なんだ、などと生徒に説明する先生がいるが、それでいいのだろうか。調べてみた。

 

Perlmutter(1971)などの文献によれば、英語のように、仮主語の「it」を立ててまで、主語を省かずに示す言語はインドヨーロッパ語族の中の英語、フランス語、ドイツ語、ロマンシュ語、オランダ語、ノルウェー語、スウェーデン語、デンマーク語だけで、世界の言語の1%にも満たない。話者の数でいくと、世界70億人の10%7億人程度だ。

 

世界の多くの言語は、程度の差はあるが、主語を省略する。最も多く主語を省略する言語は、日本語、ポリネシア諸語など。次に朝鮮語などのウラル・アルタイ語族、続いて中国語など。それからヨーロッパのイタリア語、スペイン語、ポルトガル語、フィンランド語など。

 

しかし、この主語省略の比率は一直線に並んでいるわけではない。少々複雑だ。日本語や朝鮮語など、なんとなく主語を省略している言語とイタリア語などの動詞の活用語尾によって省略されている主語がはっきりとわかる言語とでは、方式が違っている。

 

はっきりわかることは、日本語は最も主語を省略する言語の1つで、英語は最も主語を省略しない言語だということだ。このように日本語と英語とは、いろいろな点で両極端をなしている。ゆえに、英語は日本人にとっては最も習得が難しい言語だと言ってよいであろう。

 

余計な話を付け加えると、よく主語を省略するのは、日本語のような母音中心言語が多く、主語を省略しない言語は英語のように子音中心言語だ。また、日本語のように母音中心言語の人は母音を左脳で聴き、楽器の音は右脳で聴くが、子音中心言語の英米人などは、母音も楽器も右脳で聴く。子音は左脳で聴く。

 

もうひとつ言えば、日本文学を翻訳する際に、韓国語や中国語はかなりの代名詞主語を付け加える。日本語の原作にはなかった主語を加える際にやはり間違いが起こるようだ。

 

日本語の省略された主語をなぜ外国人は間違うのか。これは長い間私の疑問として残った。10年、20年とときどき考えた。

 

●(1)主語省略の実態

ある調査によると、日本語における省略のうち、主語省略がもっとも多く、会話体で67%、論説体で27%の主語が省略されていたという。(省略されていると言うよりも暗示される主語が67%もあると言うべきか。)実例を示そう。

 

(1)さう、それから、さきほど稲村さんにお電話で申し上げますと、母もいっしょですかと、お嬢さんがおっしゃいますから、お揃いでいらしていただけばなお結構ですと、お願いしたんですけれど、お母さんは差支えで、お嬢さんだけということにしました。―川端康成『千羽鶴』

 

When I spoke to Miss Inamura over the telephone, she asked if I meant that her mother was to come too. I said it would be still better if we could have two of them. But there were reasons why the mother couldn’t come, and We made it just the girl. ―Trans. by E.G. Seidensticker

 

原文でははっきりと主語とわかるものは2つだけしかない。ところが英訳の方には主語が10もある。日本語では主語を省略している意識はそれほどないが、英語の観点では10個も主語を明示しないと普通のことばにならない。

 

日本語は、代名詞主語を増やしていくと、代名詞ばかりが目立って、かえって談話全体がわかりにくくなる。また、省略することによって、節と節、文と文の緊密性を高める、いい直せば、結束性を高めている。すなわち、日本語においては、省略は単にことばの経済のゆえだけでなく、言いたいポイントを伝える積極的なストラテジーの1つとなっているのだ。

 

(つづく)

日本語における「主語省略」の問題(3)

Posted on 2015年4月6日

●(2)日本語における省略のルール

英語の場合はほぼ予想通りに仕事は進んだが、日本語の場合はそうはいかなかった。小説・随筆を選んで、省略があると思われる文を書き抜き始めたが、待てよ、と思った。

 

復元先がすぐ前になかったり、ずっと前から読んでこないと省略部分が復元できなかったり、ぼんやりと意味がわかるだけで、具体的に復元しようとすると、何通りものやり方があって、迷ったりした。

 

仕事のやり方を変えざるを得なかった。たくさんカードを取るよりも、復元した文も書き、注記や感じたコメントも入れることにした。

 

そのようにして、数十枚のカードを取った。それから、もう少し別のやり方はないかと考えた。そして日本文学の原文と英訳との比較をやってみたら、何かわかるのではないかと思った。いくつかの作品を取り上げて、原文と訳文を突き合わせていくと、日本語の省略語句がときどき誤訳されていることを発見した。

 

当代一流の翻訳家が、日本語は自由に話せ、漢字は日本人以上に知っている人たちが、省略された主語や目的語を間違ったりするのはなぜだろうと考えた。どうもよくわからず宿題とした。

 

多くのカードを眺めて、暫定的に日本語の省略のルールを決めた。

 

B:日本語は「意味の前後関係」によって省略を行う。日本語は、もしもその省略を補うとすれば、「意味の前後関係」(situation)を目安にする。

 

(3) 警棒で抱きかかえようとすると、いきなり腕に噛みついてきた。

この例文の省略されていると思われるところを補ってみると、[私が]警棒で[その女を]抱きかかえようとすると、[女は]いきなり[私の]腕に噛みついてきた。

 

「私」という語はどこにもないが、意味上わかる。「その女」は同じ文の中にはなく、その前の文を見てもない。どうしてこれがわかるかと言うと、ずーとさかのぼっていくと、酔っぱらいの女が相手だとわかる。[その女を]にしても[彼女を]でもいいし、[そいつを]でもいいし、[その人を]でもいい。

 

(4) 「北海道の学生さんですか。」「いいえ、ちがいます。」

この「ちがいます」は省略はないとも言えるし、あるとしてもよいだろう。「[それは]ちがいます」とか「[あなたのおっしゃっていることは]ちがいます」などと解釈できる。「そうです」「そんなら」「そうすると」などと同じく、前の内容をくくって、それに対して総括的に言い添えるわけだ。このような「総括的表現」は日本語の一つの特徴で、省略があるのかどうかを曖昧にしている。

 

これが英語ならば簡単だ。

“Are you a student from Hokkaido?” “Yes, I am.”

“I am”の次の省略を補うとすれば、構造的にだれでも簡単にできる。

 

(★ある友人が、私の省略の論文はインターネット上で読めるよ、と連絡してきた。それは知らなかったと見てみると、なるほど読める。よろしかったらちらっと最初の方だけでも見てやってください。http://ci.nii.ac.jp/naid/110008674565

 

(★次回は「主語省略」へ入る。日本語では主語はよく省略されるが、英語では原則として省略されない。では世界のほかの言語はどうなのか。英語と日本語でどちらが普通の言語なのかといったことから、日本語の主語省略を少し詳しく検討してみたい。)

 

 (つづく)