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浅野:英語教育批評:日本語を考える(その2)

Posted on 2009年8月6日

(1)「話ことば」の間違い
 テレビのトーク番組やレポートなどを聞いていると、助詞の間違いが非常に多いのが気になる。一般的には聞き手はあまり気にせずに、その発言の趣旨を理解しようとする。例えば、「どの政党を支持するか」は正しいが、動詞との間に他の語句が入り込むと、助詞が浮いてしまうことが多い。「どの政党が、われわれ有権者として選ぶかは、大切な問題だ」→「どの政党をわれわれ有権者が選ぶかは、大切な問題だ」。または、「どの政党が望ましいか…」と言おうとして、「望ましい」という言葉が消えてしまうのだ。
(2)英語の前置詞
 英語の発言で、前置詞を間違えるということはあまりない。もちろん、言い間違いということはあるが、すぐに気づいて訂正することが多い。1つには、動詞との結びつきが堅いからであろう。「動詞+前置詞」という語順が定着しているのだ。助詞は「後置詞」のようなもので、「語句+助詞」を言ってから、動詞などを考えることが普通だ。そうなると、前に言った助詞を忘れてしまうのである。
(3)「書いて練習する」こと
 話し言葉の間違いを少なくするためには、「書いて練習すること」が必要だ。書く場合には、話す場合と違って、時間的な余裕があるのが普通だ。したがって、文法的な問題点を反省する余裕がある。できれば、それを添削してもらうとなお良いであろう。若い人が作るメールの文章は、ほとんど話し言葉をそのまま写すようなものだから、練習にはならない。気を遣うのは文字の変換くらいであろう。それにも間違いが多くて、よくジョークの種にされる。
(4)多すぎる省略語
 情報量が多くなると、なるべく短く表現しようとして省略や短縮が行われる。テレビ番組の省略語などとても自分勝手だ。「これが分からならければ見てくれなくて結構」と言いたげな傲慢さだ。新聞でも「新型インフル」が最近の典型だが、私などは、なぜ「新型流感」としないのだろうかと不思議に思う。略語が多いと、2,3日もすると元の言い方や意味がわからないまま使われるようになって、あいまいな理解のままの情報が飛び交うことになる。このような状況の中では、「英語教育でもっとコミュニケーション活動を」といった要望など、かたわら痛くてまともに考える気もしなくなる。(浅 野 博)

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  1. 人間の話すことばは、大体においてメチャクチャなものである、という認識はきわめて重要である。まるで文法の本から抜け出てきたように整然とした文を話す人のアタマはどこかヘンにちがいない。かつて…五十嵐新次郎教授の話を速記して文におこしたものを見たことがある。座談の巧みさで聞く人をうならせた五十嵐先生の文章は、文字に直したとたんその生彩の大半を失い、しかもテニオハも何もあったものではない、およそungrammaticalなものになっていた。(田崎清忠「小さなきっかけで英語は話せる」The English Journal,April 1981)

  2.  蔵川さんのご意見は極端すぎると思います。私も五十嵐新次郎先生のお話は2度お聞きしたことがあります。決して文法的にでたらめな話し方ではありませんでした。
     「話ことば」と「書きことば」は、その長所、短所を理解して区別すべきです。transcription の誤りを「話ことば」の責任にすべきではありません。それと、私は「全く文法的に誤りのない話し方をしろ」と主張するつもりはありません。
     この件と田崎先生との関係は、直接にご本人に確かめてみます。


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