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4.自由な学風(湯川秀樹の学習,研究,人となり)

Posted on 2009年12月30日

湯川の通った京都一中,三高,京大は自由主義的な雰囲気があった。京大理学部には必修科目は一切なかったという。勉強するのは君たち自身である,と放っておかれた。湯川はこの自由放任主義がたいへん性に合っていて,うれしかったようだ。

数学がよくできて,教科書をもらうと,最初からすべて解いてしまうほどで,解けない問題はなかった。高校になって,大学で数学を専攻することも考えたが,あるとき先生と同じ解き方をしなかったらバツになった。そんなばかな,そんな数学ならもうやらないと思ったことがあった。それよりももっと混沌・朦朧としたものに筋道をつける物理学の方が自分に合っているように思ったのであろう。

大学3年になって,卒業論文を書くためにどの先生につくかという時期になって困った。理論物理学の最先端,今始まったばかりの量子力学を,分子より小さい原子を,さらにその中心である原子核を明らかにしたいと思ったが,専門にしている先生がいなかった。相談したわけではないが,朝永振一郎も同じように考えていた。

玉城教授が二人を受け入れてくれた。先生の指導はなく,自由にやりたまえ,と言われた。二人にとってはこんないい環境はなかった。

湯川と朝永の関係はおもしろい。ともに同じ専門を志し,副手として同じ部屋にいながら,二人でいっしょに論文を読んだり,討議したり,恩師の玉城教授の教えを請うたり,2,3の同学の先輩と研究の会を作ったりしたことはなかった。もっぱら,それぞれが最先端の論文の中に埋没して,思索にふけっていた。ふたりには欧米の論文が相手,世界が相手であった。(湯川が使ったテキストはまだ見る機会がないが,朝永が使ったテキストには欄外にびっしり書き込みがしてあって,論文に学ぶというより,対等の立場で議論しているようであった。)

湯川と朝永が親しく意見を交わすようになるのは,朝永が東京へ去ってからである。7年半のヨーロッパ留学から帰って,東京の理科学研究所に落ち着いた仁科芳雄は,二人にとっては唯一の恩師であった。仁科は量子力学を集中講義してくれたばかりか,コペンハーゲン精神と言われる,寛容の精神で,わけ隔てなく接してくれた。大先生が,話しやすい人柄で,何でも話せ,慈父のようであったと湯川は言っている。

また,玉城教授には湯川の研究レベルの高さはよくわかっていたのであろう。何の論文もなく,大学院も出てない者をいきなり講師にして,おそらく日本で初めての授業科目であると思われる「量子論」を担当させた。やがて新設の大阪帝国大学講師となり,京大講師を兼任したのである。
(村田 年)

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