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浅野:英語教育批評:「英語教育と国際理解教育」再考

Posted on 2010年5月14日

(1)このテーマは、3月28日付けのブログで取り上げた。その際に、「英語教員はどうしてこう何でも引き受けようとするのであろうか」と書いたことについて、「そんなことはない。なぜそんなことを言うのか」という趣旨の批判を受けた。したがって、私の真意をさらに述べたいと思う。
(2)私は、一般的な傾向を述べる場合にすべての例外を否定しているわけではないし、上記のブログも勝手な推測で書いたものでもない。15年ほど前にある政令指定都市の英語の指導主事に会ったら、「当市では小中高の共通テーマとして国際理解教育を取り上げて、その実践を推進している」とのことだった。しかも、「やはり英語教員が一番協力的です」とも。
(3)現在では、指導主事や学校長の権限をいっそう強めようとする動きがあって、教員は上からの押し付けに反対することが難しくなっている。典型的な例は、『学校から言論の自由がなくなる―ある都立高校長の「反乱」―』(岩波ブックレット、2009)に紹介されている。著者は土肥信雄・藤田英典・尾木直樹・西原博史・石坂啓の諸氏で、最初の土肥氏が「反乱」を起こした校長先生だ。都教育委員会の「職員会議では採決などしないで、校長の意向が通るように進めるべき」という方針に歯向かったことが「反乱」に当たるわけだ。
(4)この問題は改めて考えてみたいが、ここでは本題に戻ることにする。文科省は、「国際理解教育」という用語は「指導要領」では用いていないと私は理解している。「国際理解」ということは以前から言ってきたが、「国際理解教育」とすると、新しい科目として位置付けなければならない。そこで、小学校の英語教育を「英語活動」と呼ぶように、官僚的な用語による逃げ道を用意していると考えられる。
(5)それはともかく、言語学者で、英語教育にも発言の多い鈴木孝夫氏は、『英語はいらない!?』(PHP新書、2001)で、「国際化」の意味を追求し(特に第4章)、さらに、『日本人はなぜ英語ができないか』(岩波書店、1999)では、「『国際理解』は止めよう」という一節を設けている(V章の1)。それは、簡単に言えば、「英語の授業では教えることが多いのだから、『国際理解教育』などは、綬業から追い出して、もっと基本的で必要なことを教えるべきだ」という主張である。
(6)こういう見解に対して、英語教員から、賛否いずれにしろ、意見が述べられたことを私は寡聞にして知らない。2000年当時、私は新設の大学で教えていたが、入試の口頭試問では、受験生の多くが、「なぜ英語を専攻したいのですか」という問いに、「英語が話せれば、世界の人々と交流ができるし、国際的に活躍できるからです」と答えていた記憶がある。高校生くらいになったら、「英語を母語とする人たちと対等に話し合ったり、交渉したりすることがいかに難しいか」ということくらい認識させておきたい。私は、「国際理解教育」よりも、「異文化相互理解」と呼ぶべきものについて、何が必要で、いつから、どう教えたらよいのかを研究し、実践することが肝要だと考えている。(浅 野 博)

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