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「青 春」の解釈 ― ウルマンの真の意図は? 1.はじめに

Posted on 2010年6月8日

 ウルマン記念館設立への日本人の対応は,漱石記念館の場合よりもすばやく,大袈裟なものだった。

 ロンドンの中心街から地下鉄ノーザン・ラインに乗り,テムズ川を超えて南下すると,間もなくクラッパム・コモン駅に着く。ここに漱石記念館がある。記念館から道路を隔てた向かい側の家に漱石は1901年7月から1年半ほど下宿した。5番目の下宿で,やっとここで落ち着いた。漱石は,この3階の5畳半ぐらいの天井が斜めになっている屋根裏部屋に籠って勉強し,あまり外へは出なかった。作家として立つ基盤がここで醸成されたといってよいであろう。

 1984年に恒松郁生氏がこの建物を買って漱石記念館にするというアイディアを持ったときに日本の財界も学会も何の支援もしなかった。日本の偉い文人が下宿したとのことで値がつり上がり,結局恒松氏は購入できず,向かい側の建物を買って,記念館とした。

 2003年3月に再度機会が訪れた。漱石が下宿した建物が売りに出たのだ。しかし,日本ではこれを買い取ろうという動きはまったくなかった。

 「青春」のウルマンの場合はまったく違っていた。引退して70代になってから詩を書き,その中のただ1つの詩「青春」が日本人に受けた無名の素人詩人に過ぎない。「青春」の作者がだれだかわからず,やっと探し当てて,そのかつての住まい,孫などが判明すると,日本の財界は,遺族を呼んで祝賀会を開き,青春の詩碑を建て,元の住まいを買い取って
記念館とし,青春の会を設立し,ウルマン賞を制定し,アラバマ大学に奨学基金を作り,青春の掛け軸,色紙,訳詩を刷り込んだテレホンカードを作るなど,など。松下幸之助,盛田昭夫など200名以上の財界人に中曽根康弘氏など政界人も加わって,資金は相当余ってしまったという。

このようなフィーバーぶりは,日本人における「青春」の少々ずれた解釈に基づいているのではないかと小生には思われてならない。
(村田 年)

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