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浅野:英語教育批評:「英語教育における協同学習」のこと

Posted on 2010年6月23日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2010年7月号の特集は、「協同学習でよみがえる英語授業」である。「よみがえる」というのは、今は、「活気のない」「死んだような」授業になっていると言っているように私は感じてしまった。事実そういう授業もあるだろうが、「協同学習で授業にいっそうの活力を」などのほうが素直でよいと思う。
(2)特集の冒頭には、江利川春雄氏が「英語教育に“なぜ”“どう”協同学習を導入するのか」というタイトルで書いている。江利川氏のするどい視点には、私は日頃から敬意を払っているので、この記事では、「英語教育に“なぜ”」にどう答えているであろうか、と期待して読んだ。氏は「生徒同士が学び合い、教え合い、一緒に高め合う。自分一人ではできない高度なタスクを仲間と協力して達成する・・・」と述べて、そうした協同学習は目を見張る成果をあげているとも言う。私にはそういう成果を否定するつもりはないが、最近の学校における悲惨な事件を知ると、「そんなに協同学習はうまくいっているのかなあ」と懐疑的かつ悲観的になってしまうのである。
(3)また、小学校の場合や、欧米や韓国、中国の協同学習の広まりを指摘されても、「なぜ日本の英語教育で」の答は得にくいように感じる。江利川氏は、「英語によるコミュニケーション活動に協同学習が必要であり、有効である」という趣旨の主張をする。これにも、私はすぐに賛成はしがたい。例えば、『「英語が使える日本人」は育つのか?~小学校から大学英語までを検証する~』(岩波ブックレット、2009)などは、「コミュニケーションのための英語教育」への強烈な反論で、論者は山田雄一郎、大津由紀雄、斎藤兆史である。これを極論に過ぎないと無視するのは簡単だが、私は聞くべき堅実な見解があると思う。したがって、「英語でコミュニケーション活動ができるように協同学習を」とはすぐに考えにくいのである。
(4)特集では、小・中・高および大学における協同授業の実践例の紹介記事がある。その授業では、お互いに楽しく知恵を出し合い、批判し合って1つの作業をさせていて、その意義はわかる。ただし、私の大きな心配は、「学習者の基礎的なドリル」が不足するのではないか、ということである。教育という営みは元来保守的な性格があり、「学習者の望む通りに」といった方針だけではうまくいかない。したがって、「苦しみに耐えながら努力する」という要素を除去してしまってよいものであろうか。「ゆとりある教育」が提案された理由や、その失敗の経過から私たちはもっと学ぶべきものがあるのではなかろうか、と私は考える。(浅 野 博)

【私の記事に対するコメントは原則非公開扱いとさせていただきます】

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