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3.「秀才」― 好奇心と動機,そして学習

Posted on 2010年10月6日

元来,子供は好奇心のかたまりで,「なぜ?」「どうして?どうして?」と聞くのが当たり前だ。これを「うるさい!」などと言わずに,うまく扱うのが大人の務めだ,などとよく言われる。

しからば,どのような教育形態がいいのだろうか。客観テストなどのクイズ―解答方式は,ほとんどすべての子供ができるようになる効果的な教授形態のように見えるが,実はこれはブロイラー工場のニワトリ飼育方式とよく似ていて,全生徒を一定レベルに手早く仕上げる効果はあるが,一方では好奇心や動機をどんどん殺しているのである。

「外発的動機」がある。これは外部から先生,親,社会などがこれを勉強するようにと生徒に迫るわけである。この項目は重要だから,点数を上げよう,受験がある,就職のために,といった外圧によって勉強するわけである。私たち日本の教育はこの「外発的動機」で勉強させる体制がほかの国々より大きいようで,これで学習国際比較の理科・数学の点数がかつて世界トップであったのだと思って間違いないであろう。

明治時代から戦後の復興期,昭和45(1970)年ぐらいまではこれでよかった。促成栽培で,どんどん優秀な働き手を世に出していけた。しかし,「外発的動機」が過ぎると,それは「内発的動機」を押し殺してしまう。社会が豊かになり,外発的動機はだんだんと威力を失ってきた。かといってすぐに内発的動機が強くなることはなかった。ここに日本の教育の前途への大きな壁があったが,これに気がつかない指導者が多かったし,今でも多い。

「内発的動機」すなわち,生徒個人の内側から湧き出てくる好奇心を大事にし,その好奇心を満たすべく,自主的に,生徒が主体性をもって勉強していく。こういった方向へと欧米の教育は,1960年頃から変わり始めていたが,日本は相変わらず,効率のよいブロイラー方式で,安上がりに教育することでよしとしてきた。

子供の素朴な内発的動機に外発的な動機を加味し,さらに高度な内発的動機にもっていくことが大事で,外圧と内圧とをうまく混ぜ合わせて指導していくのが一番よいのだが,われわれの場合外圧に頼り過ぎているのが現状だ。
(村田 年)

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