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浅野:英語教育批評:「何をどう書くか」の問題

Posted on 2011年3月15日

「何をどう書くか」の問題
(1)前回は、中学校におけるライティングの指導を考えたが、続きとして、日本語によるライティングの問題を考察してみたい。まず参考になるのは、丸谷才一・山崎正和『日本語の21世紀のために』(文春新書、1992)である。丸谷氏は、日本語や国語指導のことをよく論評している作家、評論家である。山崎氏は、劇作家で、いくつかの大学にも勤めて、この本の時は東亜大学学長である。この書物は二氏の対談になっているが、山崎氏は大阪大学で教えていた時に、受験問題を作る順番が回ってきて、次のような出題をしたと述べている。

(2)「私は、1枚のごく平凡な写真を印刷しまして、この場面を見た通りに記述せよという問題を出しました。(その場面は、踏み切りの遮断機の手前には中年の男と自転車の子供がいて、電車が通過しているところ。)
 「さあ、大変なことになりまして、まず予備校から囂々(ごうごう)たる非難。こんな問題見たことない、これでは意見も主張もできないから、個性の否定である、生徒の人権蹂躙である。さらにもっとひどかったのは、新聞記者から記述とはなんですかと聞いてきた。(後略)」

(3)国語の“書かせる問題”は、「主人公の気持ち」とか「この女性が突然泣き出したのはなぜか」といった“感情的な気持ち”が主要な狙いになることが多い。しかし、日本語できちんとした状況の描写もできない高校生に、“感情的な気持ち”ばかり書かせるのは、基礎的な作文力をつけるためにも望ましくないと思う。つまり、彼等はまず基礎的な“コロケーション”を身に付けるべきなのである。“コロケーション”は、「連語法」などとしているが、一般的には馴染みがない。“語や句の自然なつながり”とでもしたほうが、生徒にも分かりやすいであろう。

(4)現在はフリーになっている日本テレビの徳光アナウンサーは、入社した頃は、東京まで電車で1時間以上かけて通勤していた。彼はその時間を無駄にしないように、つぶやきながら窓外の景色を言葉で描写することをしていたと語っていた。したがって、後に彼はプロレス中継もやったが、その描写力は印象深いものだった。現在は涙もろい好々爺になっているが、基礎力のある人は伸びるのである。

(5)最近、コメンテーターなどの発言で気になるのは、「何と言ったらいいか…」とまず言う人が多いことだ。もちろん、書く場合と違って、とっさに話す場合は、言葉に詰まることは誰にでもあることだが、口癖のようになっている人がいるのである。英語では、”How shall I say it?” というのは、私は耳にしたことがない。”Let me put it this way?” (こんなふうに言い替えてみましょう)と言って、分かりやすい別の表現に言い直す例には何回か出会ったことがある。日本人はもっと自分の使う言葉に関心を持って、より良い表現を学ぶべきであろう。英語教育もそういう目的に貢献できるような教え方をしたいものだと思う。(浅 野 博)

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