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浅野:英語教育批評:「Lesson Plan と指導案」のこと

Posted on 2011年3月26日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2011 年4月号の特集は、「いい授業のために『教案』を書こう」である。教科教育の授業を履修している大学生でも、その授業で「教案」の書き方まで指導を受けることは時間の関係で難しい。そこで、教育実習をする中学、高校の現場で指導を受けることになる。これは昔からそうだったと思う。ところが、最近は中高の教員も多忙で十分な指導が出来ないことがあるということを耳にした。そうであれば、このようなの特集記事の出番になるわけだが、そういう要求に応えているであろうか。

(2)基本的な問題として、私は「教案」という用語は、使わないほうがよいと考えている。その理由は、1990年代になってからは、「教える」というよりも、「指導する」という考え方が主流になってきたと思うからだ。したがって、「教授法」より「指導法」と言うことが多いのではなかろうか。そうだとすれば、「教案」よりも「指導案」のほうが望ましいと思う。

(3)「指導案」について十分な指導を受けられない教育実習生や教員志望者には、まず「指導案」とはどういうものかを典型的な見本で示すことが有効であろう。見本になるような具体例は、肥沼則明「教案は何を書くか、書かないか―達人の教案拝見」に見られるが、手書きのものもあって、小さくて見にくい。1ページを使って、見やすく提示したほうがよい。見やすく提示してあるのは、日臺滋之「ALT とのティーム・ティーティーチングの教案をどう作るか」であるが、これはかなり高度な例であるように思う。

(4)1990年代には、多くの大学、短大では、「シラバス(syllabus)」が学生に公表されるようになった。日本語の呼び方はまちまちで、「教授綱目」とか「授業細案」などが見られた。趣旨は「この科目では、何を目標に、どういう内容を学ぶか」が分かるようにすることである。当初は、その視点は、「教える」という教員からのものが主流であったが、現在では、「学ぶ側の立場」も考慮するように、改善と工夫が見られるようになったと思う。

(5)私は、「英語教育批評 15」で、「リメディアル教育」のことを50年前の訪米の経験を基に書いた。ある時、ホステス役の小学校の先生が、わざわざ休暇を取ってバージニア州の観光旅行に連れて行ってくれることになった。その先生が勤務を休むのは、1日だけであったが、授業を代行してくれる臨時の先生と数時間も使って打ち合わせをしていた。指導案を示すだけではなく、個々の生徒に応じた指導上の留意点まで細かく伝えていた。それまでの私の日本での経験では(高校の場合だが)、先生が突然休んだような場合は、「自習」にすることが多かったので、柔軟で肌理の細かい制度に感心した記憶がある。

(6)何か仕事を引き受けた以上は、そこに権限と責任が生じる。そして、最後までその権限を行使し、責任を果たさなければならない。日本の場合はどうもそういう姿勢が欠けていることが多いように思う。そのくせ、後から責任を追及することだけは熱心である。今度の未曽有の大災害を教訓にして、日本人の考え方も改善されるべきであろう。私の「英語教育批評」も“あら探し”ではなく、“切磋琢磨”という意図がもっと生きるように努力したいと考えている。(浅 野 博)

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