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浅野:英語教育批評:「英語学習環境の破壊」を考える

Posted on 2011年8月10日

(1)私はかねてから、「日本人の英語学習環境は破壊されている」と主張してきたが、今回はその問題をいくつか具体的に指摘してみたいと思う。1つには「カタカナ語」の多用がある。カタカナは表音文字だから、耳から入った単語などを表記するには便利だが、その表す「音」は原音とはかなり差がある。そのことに気づかない学習者が多いが、これは教える側の責任であろう。

(2)第2次大戦後は、漢字の簡略化が盛んで、それに合わせて「送りがな」なども簡略化され、「ヴ」のような表記も廃止された。上田敏の訳詩の「秋の日のヴィオロンのため息の…」が、「ビオロンの」では全く感じが違ってしまう。「ヅ」も「ズ」に統一されて、方言に残るこの2音の区別を教えなくなってしまった。そうかと思うと、「漢字検定」などでは、日常生活ではまず使わないような漢字を出題している。教育だけではなく、どこか全体が歪んでいるのが日本の実情のように思える。

(3)次に挙げたいのは、中途半端な英語の使用である。これは国会議員から始まったようだが、「英語の乱用」が目立つ。“コンプライアンス”(compliance 法を守ること)などは、「順法」でいいではないか。テレビやラジオのコメンテーターまでもが、負けじと英語を多用する。“ファイナンスする”というのもあった。“ファイナンス(finance 金融、会計)でさえあまり知られていないと思うのに、「財政を管理する」といった動詞で使うなど、「自分さえ分かれば」というコミュニケーションの原則無視の態度はとても容認できない。

(4)日本人の英語学習者は、その多くが「英語を話すのは難しい」と感じているが、そもそも基盤の軟弱なところに家を建てようとするようなもので、個人の力ではどうにもならない面がある。そうした逆境を利用しようという試みもあった。例えば、脇山怜『和製英語から英語を学ぶ』(新潮選書、1985)とか、河口鴻三『和製英語が役に立つ』(文春新書、2004)などで、これなら、「和製英語」と「英語」の両方を学べる。ただし、初心者向きではない。初心者は「和製英語」が印象にの残ってしまうことがありがちだからである。

(5)教室の問題に戻って、「音(おん)」について、教員はどのくらい指導しているであろうか。「アイウエオ」を扱うにしても、なぜ「五十音図」と言うかを知っていれば、音に触れざるを得ない。国語音声学といった書物もあるが、難解な専門用語を使っての記述が多くて、実用的でない。文科省の学習指導要領もこの点では役に立たない。教育は八方塞がりの状況であると思う。(浅 野 博)

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