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浅野:英語教育批評:「和文英訳」で感じた日本語の問題(その1)

Posted on 2006年8月29日

 「英語教育」誌(大修館書店)の磐崎、Elwood 両氏担当の「和文英訳欄」では、課題文が小説やエッセーからばかりでなく、英語教師向けの専門書から出題されることがある。投稿者は英語教師とは限らないであろうが、2006年9月号の成績は必ずしもよくないとのこと。この回の出題の冒頭は次のような文である。

 CALL 教室での指導を中心に授業を行う場合「教師は何をすべきでしょうか」という質問をよく受ける。(『これからの大学英語教育』岩波書店、2005)

 CALL に馴染みがない人にはピンとこない点があるかもしれないが、日本語としてはどうということのない文である。しかし、訳された英文から判断すると、この和文の解釈が分かれると評者は言う。ちなみにこの部分の試訳は次のようになっている。

 “What are teachers supposed to do?” is a
question teachers often ask me when their
lessons are mainly carried out in CALL rooms.

これならば、どういう状況で、誰が誰に質問するのかが明確だ。日本人は、当たり前のこととして、主語や目的語の省略をするが、そのことがコミュニケーションの障害になっているとしたら、簡単に見逃がせない問題であろう。また、言語学的には「日本語には主語は要らない」と説く金谷武洋氏のような見解もあるから、問題は複雑だ。(続く)
(浅野 博)

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