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「日本語が亡びるとき」を考える

Posted on 2012年5月2日

(1)水村美苗『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』(筑摩書房、2008)という本があります。出版当時かなり話題になった本で、「英語教育」(大修館書店)にも書評が載りましたから、お読みになった教員もいることでしょう。題名はかなりショッキングなものですが、著者は、「なぜ日本語が亡びるのか」を冷静に論じています。

 

(2)A5版、300ページ以上の書物で、その内容をすべて論じることは出来ませんから、最後の第7章の「英語教育と日本語教育」を中心に考えてみることにします。この章の冒頭で、著者は「凡庸だが日本語が亡びるのを避けるためには学校教育に頼るしかない」として、これまでの日本語教育、すなわち国語教育を痛烈に批判しています。例えば、文学の考え方は、「詩的なもの、ロマンチックなもの、エロチックなもの」であり、「小説家が国の学校教育などに口を出すのは無粋とされている」といった趣旨のことを書いています(p. 266)。

 

(3)私は以前にこの「英語教育批評」で、詩人の丸谷才一氏の『日本語のために』(新潮文庫、1978)を推薦したことがあります。特に丸谷氏のこの本には教育問題に関しての発言が多く、「文部省にへつらうな」といった忠告をしています。国語教育が反省すべき点が多いことは、水村氏の指摘の通りですが、前例はあるのです。

 

(4)私が高校に勤務していた頃に、同僚の国語の教員が、「国語の世界では、万葉集か源氏物語のことを論じないと相手にされない」とこぼしていたことがあります。その教員は、現代日本語の語法についての論文をいくつか書いていました。そういう国語界の閉塞性を打破したのは、海外で応用言語学などを勉強して、日本語を学ぶ留学生を教えている日本人教員が多かったと思います。

 

(5)水村美苗氏は著書による紹介では、東京生まれで、12歳の時に父親の関係でニューヨークに一家で住みましたが、そこの生活になじめなくて、「現代日本文学全集」を読んで過したとのことです。後にイェール大学、大学院で仏文学を専攻して、アメリカの大学で日本近代文学を講義したこともあるようです。著作も多く、文部大臣新人賞や読売文学賞なども受賞しています。

 

(6)日本の敗戦後の、1950年代から60年代にかけては、アメリカのフルブライト法によって主として中等教員対象のプログラムが出来て、まず英語教員が恩恵を受け、その後は理科教員にまで枠が広げられまました。帰国した理科教員の話を聞いたことがありますが、英語の発音や会話に自信がなくても、積極的にその機会を利用して、日米の文化交流に貢献したことが分る報告でした。しかし、国語の教員にはそういうプログラムに応募しようという空気はなかったようです。これでは、“井の中の蛙”になってしまうでしょう。

 

(7)水村氏は、「平たく言えば、日本人は実際に日本語を大切にしようという気がないのである」と述べて、その原因はもっと深いところにあるとしています(p. 291)。更に、「音」や「訓」の読み方、「ひらがな」と「カタカナ」のことや、「表音文字」と「表意文字」のことなどを論じています。これまで、外国の植民地になったことのない国の日本人が、日本語に誇りも愛着も感じないとしたら、“日本語が亡びる”ことがあっても当然と言わなければなりません。英語教師にとっても深刻な問題提起として受け止めるべきだと思います。(この回終り)

(浅野 博)

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