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「大学の教育改革の困難さ」を考える

Posted on 2012年11月30日

(1)衆議院の解散直前には、「田中真紀子文科大臣の大学のあり方に関する問題提起は間違っていなかった」という弁護論が聞かれました。「大学を何とかしなければいけない」という趣旨には私も賛成です。しかし、こういう発言が、大学の実情をどれだけ分かっていてなされたのか疑問に思うのです。田中真紀子大臣のあらっぽさを考えると、彼女には細かい配慮はとても無理であるように思えます。

 

(2)私は、50年近くの間に合計4つの国立大学、私立大学、私立短大で教えた経験がありますが、全ての実情に通じているとは、もちろん言えません。しかし、幾つかの大きな問題点は分かっているつもりです。その1つは“教授会”の存在です。大学の教員は、「学問研究の自由」ということをよく口にしますが、それは、今回の選挙対策に追われている政党が言っている「小異を捨てて、大同を取る」と共通点があるのです。つまり、実態は利己心だけなのです。“旧国立大学”では、“教授会”が有力で、学長でも“教授会”の意向に反しては何も決められないことがよくあったのです。

 

(3)理工系、医学系の学部や大学を別にすれば、特に人文系の学部や大学の教員は、週に1日半も大学にいれば、よかったのです。つまり「自宅で研究をしている」という言い分が認められていたのです。私立大学では、理事長を長とする理事会が権限を持っていて、しばしば教授会とトラブルを起こす例が、最近は特に多くなってきたように思います。日本では、何か権限を与えられると、「威張る人物」になることが多いのがその一因ではないでしょうか。

 

(4)私はフルブライトの特別プログラムで、短い期間(3か月)ですが、ミシガン大学に在学したことがあります。そこでは、教授たちは腰が低くて、サービス精神が旺盛なのに驚きました。自分で車を運転して、私たち留学生を下宿先まで案内してくれました。日本では偉くなるほど、「部下にやらせる」という風習が強いと思います。もちろん権限のある人は、大所高所から物事を見る必要はあるでしょう。しかし、そのことは「細かいことは知らなくてよい」という意味ではないはずです。

 

(5)ミシガン大の教授の授業では、受講生が百人、二百人と多いクラスが普通で、ちょっと驚きました。しかし、講義の仕方はとても親切で、アメリカの学生は講義中でも手を挙げて質問したりしますが、教授は丁寧に答えていました。しかもそういう教授の授業では、主に若い講師や助手クラスの教員が出席していて、10人程度の小クラスに分かれた時には、そういう教員が担当して、「教授はこう述べていたが、その理由を覚えているか」といった質問をされるので、どの授業もうっかりしていられなかった記憶があります。

 

(6)日本の大学でも“ゼミ”のような小クラスの授業はありますが、「大学は入りにくいが卒業は容易」という“伝統”は長年変わらなかったのです。やっと20年ほど前から、「シラバス(講義実施要項)」を公表するようになりましたが、受験生にも大学を選ぶ時に役に立つものです。こういう改革も大事ですが、少子化はかなり前から分かっていたのに、大学の数を増やすような認可をしてきた文科省の責任は大きいと思います。(この回終り)

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