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「日英語ことばのエッセー」(その1)(日本語は面白い?)

Posted on 2013年10月15日

(1)柴田 武『日本語はおもしろい』(岩波新書、1995)という本があります。私は出版されてからすぐに購入して読んだのですが、「ことばはおもしろい」と題してもいいような感じで、日本語や外来語の様々な問題を取り上げています。今回はこの書物が提起することばの問題を考えてみたいと思います。

 

(2)著者の柴田氏は、“首都東京のことば”以外のことばを“いなか語”として論じています。それは決して差別意識からではなく、実状として東京ことばが共通語とされていることを考慮したもののようです。そして、「共通語とその他の地域語を区別することは論理的には矛盾する場合がある」としています。「例えば、舌は東京でも“ベロ”と言っても通じるが、“ベロ”を共通語とすることには抵抗を感じる人が多いであろう」というわけです。詳しくは論文として、学会で発表したいとも述べています(p. 45)が、私はその論文は読んでいません。

 

(3)首都のことばが国全体の共通語になることは果たして望ましいことなのか、どうかは議論のあるところでしょう。明治維新では、「とにかくこれからは東京(ひがしのみやこ)が中心だ」という意識が強く、御所も江戸城址へと移ったということも大きく働いたと思います。しかし、ことばの上では、東京弁が共通語になるべきだという理由はなかったと思います。

 

(4)50年ほど前に私がフルブライト教員として渡米した時は、イランからの中等教員も多くいましたが、首都のテヘラン出身のある男性教員は、出身地の違うイラン人の仲間のことを「やつらは田舎教師だ」と軽蔑していました。階級や地域差を強く意識する国民だという印象を持ちました。アメリカからフルブライト奨学金を貰っていながら、ある男性教員は「僕は病気があって手術を受けにアメリカに来たのだ」と言って、滞在期限が来ても帰国をせずにニューヨクへ行ってしまいました。日本では、「期限までに必ず帰国するように」とフルブライトの日本人の事務局長から厳しく言われていました。

 

(5)その後のアメリカとイスラム社会の関係は、イスラム社会を他の宗教の人たちが理解することはとても難しいことを教えてくれます。国際交流の障壁は“ことば”だけではないのです。日本人の多くが「英語さえ話せれば世界を歩ける」と考えがちですが、英語教育も反省すべきでしょう。イスラム社会とノーベル平和賞との関係には流血の歴史があるようですが、今回の私のテーマとずれますので、以上の指摘に留めます。

 

(6)柴田氏の書物に話を戻しますが、「桃太郎の日本語」という小見出しがあります(p. 120)。ここでは2つの問題が提起されていて、1つは、戦後はアメリカ占領軍の指示で、この童話の出版が禁止されたらしいこと。もう1つは、戦前の絵本などでは、「ムカシ ムカシオジイイサン ト オバアサン ガ アリマシタ」と書いてあったことです。後者は「人について“アリマシタ”と言えるかどうかという問題です。

 

(7)英語では、“there is 構文”の主語には人も物も使えますから、日本語のような問題は生じませんが、「人がある」というのは間違いだと思う日本人はかなりいると思います。ところがこれが実際には多く使われています。ある火災を報じるニュースで、「なおこの火事におけるけが人はありませんでした」という言い方はよく耳にします。(私は少し違和感を覚えます。「けが人は出ませんでした」の方が抵抗が抵抗を感じない言い方です)。

 

(8)こういう問題は「どちらが正しいか」ということではなく、「どちらがより普通に使われるか」という視点から考えてみるべきなのでしょう。関心のある方は、『広辞苑』で、“いる”(居る)と“ある”(在る)を調べてみてください。多くのことが学べると思います。(この回終り)

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