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浅野:英語教育批評:母親と“本能”のこと

Posted on 2007年8月14日

 英語教師になりたての頃、高校生の答案を採点していて、「どうも女生徒のほうが点が良いのですが、毎年そうですか」と隣の席の男性先輩に尋ねたことがある。彼は、「そうだよ。もともと言葉は女性のほうが得意だ。母親から教わるから“母語”と言うだろう」と話してくれた。私の高校での教え子たちは、進学して日本語や外国語を専攻したのは女子に多く、男子は理工系や経済関係に進む傾向があった。昭和40年代頃までは、女子が理工系を希望したりすると、お嫁に行けなくなると真剣に心配する親が多かったから、単純に能力の問題と割り切ることはできないのだが。
 その後、アメリカの言語学者が、
母語( mother tongue) とは別に、
「母親語」(motherese) の存在を指摘していることを知った。異なる言語を話す母親でも自分の赤ちゃんに話しかけるときは、①声の調子が高くなり、②抑揚が誇張される傾向があるというのだ。このことは、正高信男『ヒトはなぜ子育てに悩むのか』(講談社現代新書、1995)に紹介されている。
 私が素人として考えてきたのは、人間のあらゆる本能は衰えてきているが、母親の中には根強く生き残っているということであった。今でも、赤ちゃんをおんぶして、幼児二人を前と後ろにと、自転車に4人乗りをして買い物に急ぐ母親を見たりすると、すごいなあと感心してしまう(警察は違反だと言うけれど)。
 ところが、一方では、子育てを放棄したり、虐待して死なせたりしてしまう母親が増えている。環境汚染で動植物が死滅するように、人間の本能もおかしくなっているのだ。この現象は動物にも現れて、イヌが親に捨てられたサルの子を育てている場面がテレビで放映されたりする。「犬猿の仲」という言い方が通じなくなってきたのだが、「ほほえましい」と感心している場合ではない。近い将来は人間も絶滅してしまうか、絶滅しないまでも、試験管ベービーをロボットが育てる社会になるのではないかという問題なのだと思う。
(浅野 博)

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