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浅野:英語教育批評:論理的であること

Posted on 2007年8月21日

 もう30年以上も前に、イギリスのBBC が制作した “Teaching Observed”(授業観察)というビデオ教材を教科教育で使ったことがある。ケニヤ、インド、シンガポールの小学校段階の英語授業を録画で見学でき、目的、指導法、教材の準備といったテーマに教員がいかに取り組んでいるかを知ることの出来る英語教員養成用のものであった。
 シンガポールの授業では、中が見えない布の袋にいろいろな品物(文房具など)を入れて、手で触った物が何であるかを当てるゲームをしていた。
“I think this is a pencil.” などというのは日本の中学生にも言えるであろうが、先生はすかさず
“How do you know?”(どうしてわかる?) と尋ねるのである。すると生徒は、例えば日本語にすると「細長くて、先がとがっていて、反対側はとがっていない」といった説明をするのである(実例はもっと難しい。)
 表現力もさることながら生徒の語彙の大きさに感嘆せざるを得ない。彼らにとって英語は「第2言語」であって、「外国語」ではないからというのも大きな理由にはなろう。それにしても、「なぜ」「どうして」という問いに答える訓練はどんな場合にも必要なものと思う。「論理的」などと難しく言う必要もない。
 日本人は一般的に日常会話でも、「好きだ」「嫌いだ」「おいしい」「まずい」といった感覚的な表現を好むから、理由は説明しにくい。「好きだから好き」ということになりがちである。これでは「ものごとの説明」の練習にならない。このあたりは国語教育でしっかりと訓練すべきであろう。入試問題では、「このときの少女の気持ちを最もよく表しているものを次から選びなさい」といったものが多すぎるのである。
 もっとも、政治家が「なぜ」「どうして」にまともに答えない見本を示しているようでは、問題解決は簡単ではない。国会中継などは中高生は見ないであろうが、ニュースやワイドショーではおかしなところばかりを繰り返すから、影響がないとは言えない。
(浅 野 博) 

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