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浅野:英語教育批評:「保守」ということ

Posted on 2008年5月1日

 この言葉は「保守党」など政治に関することでなじみが深いが、原義は「伝統的なものを重んじて、考え方、やり方などをあまり変えないこと」で、反意語は「革新」である。「保守的な英語教師」とは、訳読式にこだわり、古い英語でも受験に必要だと十年一日のごとく教えているタイプであろう。では「革新的な英語教師」はどうであろうか。今は組合的な発想はあまり受けないので、明確なイメージが浮かびにくい。言語学や英語学の分野では、外国の新しい理論をさも自分の見解のように紹介するだけで得意になっている“進歩的な学者”が少なくない。それに追随してやたらと新しいしい指導法を説く教師もいないではないが、教室では実践を要求されるから化けの皮がはげやすい。
 教育では1つの効果的な指導法の存在は、理論的にはあり得ても、実践上では極めて難しい。実施上の環境や条件が違えば効果がないからだ。したがって、昔から「折衷法」という教え方が提唱されていた。これは19世紀末頃、ヨーロッパで「訳読式」と音声重視の「直接法」を折衷させる方法だったが、日本では、戦後のめまぐるしい指導法の変化の中で、それぞれの方法の長所を生かすような「折衷法」を工夫してきた教師が少なくないと信じたい。
 そもそも学校教育という営みは、本来“保守的な”ものだと私は考えている。教育の目的の1つに「知識の伝達」というものがある。その「知識」の大部分は「道徳」も含めて「伝統的なもの」だ。敗戦後は「教える」という「教師中心」の考え方から、「生徒中心」へという視点の移動は大きな転換であった。革新的と言えないことはないが、ヨーロッパにはルソー(1712−’78) やペスタロッチ(1746−1827)などの先達がいて、幾多の考え方の変遷を経験している。これも1つの伝統であろう。英語教師であれば、簡単に「保守的」とか「革新的」といった言葉に左右されず、じっくりと生徒と向かい合って適切な方法を実践していくことが望ましいのだ。
(浅 野 博)

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