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浅野:英語教育批評:「検定ばやり」に思うこと

Posted on 2008年6月4日

 世の中「検定」が大はやりだ。いくつあるのか数えたことはないが、単純に良いことだとも言えない。例えば、「eco 検定」というのもあるが、就職に有利だということ以外にどういう利点があるのだろうか。温暖化防止や物資の節約のためなら、人間一人ひとりが、適切な知識と判断力をもって実践しなければ効果はないであろう。指導員が必要かもしれないが、今の日本人の多くは指導員などに従わないのではないか。ゴミの分別をしない、不法投棄をするなどわがままし放題だ。
 英語教育についても同様だ。教員免許の更新制も必要かもしれないが、英語教員には、その他に TOEFL だ、TOEIC だ、英検だと、さまざまな英語力の資格が要求される。肝心な「授業力」というものは、定義も難しいし、検定もしにくいから、不問に付されがちだ。研究授業などで、1回の授業を観察すれば、「教え方のうまい先生」と「下手な先生」くらいの区別はつくが、「うまい先生」でも、長い期間そのような教え方をして、効果をあげているかどうかはわからないし、「下手な先生」でも、その後努力して改善を図ることもあり得るだろう。要するに、教育の実践に関しては短期間で結論を出すことはできないのだ。ましてや、英語力の検定に受かるための勉強に追われて、授業の手抜きをしているとしたら、まったく逆効果ではないか。
 現在、もっとも必要なのは「父母検定」というものではないか。結婚そのものは、年齢の制限や親権者の認可という条件がある。しかし、子どもを生む、つまり親になるというのは、結婚していれば当然のことと思われている。それなのに、子どもを虐待したり、殺したりと親と呼べない親が少なくない。
「親になる資格があるかどうかを検定試験で判定する」などと言うと、人権侵害と訴えられそうだが、もちろん、検定問題である得点以下の者には、子どもを生むことを許可しないほうがよいなどと本当に思っているわけではない。世の中が「検定、検定」と騒いでいるから、「もっと他にやるべきことがあるのではないですか」と問いたいのが本心である。
(浅 野 博)

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