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浅野:英語教育批評:英語教育批判について

Posted on 2008年10月23日

 「英語教育」(大修館書店)2008年11月号の FORUM には、3編の英語教育に関する投稿があるが、その1つを取り上げたい。それは「費やす時間とエネルギーに見合った英語習得プログラムを」と題する米原幸大氏(元コーネル大学客員日本語講師)によるものだが、私にはこのタイトルがよくわからない。このタイトルで連想するのは、「中学の英語の時間が週4時間になっても十分でないなら、4時間でできることをやればいい」といったことである。学習者についても、「お前はあまりがんばれないから(つまりエネルギーがないから)、今の程度でいいよ」ということになる。
 しかし、米原氏の論点はそうではなく、文科省は「中学・高校で英語でのコミュニケーションができること」および「大学卒業後、仕事で英語が使えること」を目標としており、財界もそういう要求をしているのだから、それに見合った英語習得プログラムにして実践せよと言いたいのだ。英語教員は「こういった目標は夢物語にしか過ぎない」と言うであろう、彼らの多くはそうしたレベルの英語力をつけていないからだ、とも書いている。
 米原氏の矛先は、そこから大学の英語教育へ向けられるわけだが、大学教員の言い分として、「英語は手段であり、英語で何ができるのかが重要であって、英語力向上そのものが目的になるプログラムは本末転倒である」というのがよく使われるとある。私はこんな言い分は、寡聞にして聞いたことがないし、もし聞いたとしても、「何を言いたいのかわからない」と無視するであろう。大学の英語教育も反省すべき点は多々ある。そのため東大、ICU、早稲田などで改革が進められてきた。でも現在では私立大学の4割くらいが、定員確保ができていない。したがって、英語重視の学科でも英語力がないとわかっている生徒を受け入れている。今の独立法人大学でも起こりつつある現象である。つまり、日本の教育は全体的に破壊状況に向かっていて、英語教育だけの問題ではないという認識がまず必要なのである。
(浅 野 博)

Comments (2) Trackbacks (0)
  1. 浅野先生

    一つだけ、質問させていただけたらと思います。どうぞよろしくお願いいたします。

    非常に残念なことですが、平均的大学生の英語力は、大学受験をピークに却って落ちてしまっています(自前で勝手に英語の習得作業を行っている大学生は除きます)。英語を一般教養科目として履修しながらです。つまり、ピアノのレッスンを履修しながら、却ってピアノを弾くのが下手になっていってしまうというおかしなことが、最高学府たる日本の大学で起こってしまっているのです。

    英語の先生の存在意義は、生徒に付加価値を付けることであることは疑いの余地はないと思いますが、では上に述べている英語教育の現状で、英語の先生または大学の英語プログラムは何をもって生徒に付加価値をつけていると言えるのでしょうか?

  2.  トム・ヨネハラさんへ;
    ご返事遅れて失礼しました。
     現在大学は深刻な状況にあって、3割以上の大学が定員確保が出来ないと言われています。従って、十分な意欲や学力のない大学生が増えています。これは英語教育の教え方や教材を変えるだけで解決できる問題ではありません。
     一方では、意欲や学力のある学生がいるのも事実ですから、徹底的な学力別指導をするよりないと思います。
     私は「大学の英語教育」の付加価値は、「本が読めるようになった、自ら読むようになった」ということだと思います。近年はインターネットによる情報の獲得もありますから、そのためには、「頭を使う情報処理の方法」を教えることも必要と考えています。


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