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浅野:英語教育批評:教員養成制度のこと

Posted on 2008年12月11日

 どのような教科でも、その教科の内容に関する理解力や知識が不足していたらうまく教えられないということは常識的にもわかることだ。英語教育の場合も、まず教師が「英語力があること」、それから、「教える技術」があること、という順番になる。ところで、斎藤兆史氏は次のように述べる。「…過去30年ほどの英語教育改革は、日本人が学校教育で思うように英語力が身に付かないのはもっぱら教え方が悪いせいであるとの間違った認識に基づいて進められてきた。そのため、英語教育関係者の関心が教授法に集中するようになった」(「英語教育時評」「英語教育」2008年10月号、大修館書店)。
 英語教師の傾向を厳密に指摘することは難しいが、私は中学校と高校では違いがあると考えている。中学の場合は、生徒の反応が教師の教え方1つですぐに違ってくるから教え方に関心を持たざるを得ない。もちろん高校生についても同じようなことが言えるが、どちらかと言うと、教師の知識や能力に影響されやすい。そこで、高校教師は語法研究とか教材研究のほうに力を入れる傾向があるのではないか。
 どちらにしても、“教師力”が強いとは言えない現状だ。元を糺せば教員養成制度の不備に帰せられる。どうして戦後 60年も超えているのに、整備、充実がなされないのか。1つには、戦後のアメリカ占領軍による「師範学校解体」のショックがあると思う。占領軍は「師範学校制度」を目の敵にした。「軍国主義の温床」とみなしたからである。小学校や中学学校の先生というのは、インテリであり、しかも上の命令には忠実に従うタイプだ。これが軍国主義のようなイデオロギーの普及に利用されたことは確かだ。戦後は逆に左翼思想に利用されて日教組などが強大になった。どちらにしても両極端はうまくない。現在は、無党派層の教員が多いとされるが、どうも安定はしていない。もっと教員養成の在り方を議論して明確にすべきだ。ところが自民党の有志議員による日教組に反対する会合などが開かれて、問題発言で辞めた国土交通省の前大臣も参加している。時代錯誤も甚だしい。
(浅 野 博)

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