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浅野:英語教育批評:「英語教師はまず英語力をつけよ」について

Posted on 2009年2月12日

 英語教師はどういう資質を持つべきかは、大きなな問題だが、教科別に担当する教師は、まずその教科についての知識を持ち、それを教える能力が必要なのは当然であろう。「英語教育」(大修館書店)2009年2月号の「英語教育時評」で、斎藤兆史氏は結論的に次のように書いている。
 
 昨今の英語教育をめぐる学理的な議論では、何とか「仮設」やら何とか「ストラテジー」やら、小難しい抽象概念ばかりが飛び交っていて、肝心の「英語」そのものがさっぱり見えてこない。(おっとまた説教癖が出てしまった)。2009年こそ、英語を学び、英語を教えることの原点を見つめ直すべき年にしようではないか。(p.41)

 私としても大賛成である。もう30年も前に、変形文法が盛んだった頃、恩師の安井稔先生は、「チョムスキー読みの英語知らず」ということを言われた。チョムスキーの理論は解説できても、英語そのものが読めない、書けないという研究者を批判されたわけだが、そういう研究者は、少なくとも英語を教える資格はないであろう。
 ただし、そういう偏った英語教師を産出しているのが、大学ではなかろうか。ここ10年ほど前からはは、教育実績ということも評価の対象に加えらるようにはなったが、大学教員の採用でものを言うのは、「仮説・実験・結論」といった形式のととのった学問的な論文である。教育実績というものも客観的評価は難しいが、論文の数だけを重視したのでは良い英語教員は採用できないであろう。
 「教え方のうまい」教員は、実例をすぐに思いつくから、抽象的な言辞を弄することはしない。好例として、太田洋『英語を教える50のポイント』(光村図書、2007)を挙げたい。著者は長年の中学校における英語教育の経験を生かして、現在は駒沢女子大学の教員だが、こういう先生に教わる大学生は幸せだと思う。英語学習者の年齢に応じた理屈も必要だが、まず英語そのものを教えられる教員を増やさなければ、英語教育の効果は期待できないのではないか。斎藤兆史氏の主張する「原点」をそう解したい。
(浅 野 博)

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