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浅野:英語教育批評:東京オリンピックと英会話

Posted on 2009年4月24日

 「東京オリンピック」と言っても、現在、賛否両論がある次の次のオリンピック (2016) のことではなくて、1964年のことだ。当時私は中学生を教えていたが、担当の学年の付添でサッカーの試合を見る機会があった。人気のある競技の入場券は入手が難しくて、サッカーになったのだが、私自身関心が薄くて、どこの国のチームだったかも覚えていない。しかし、生徒は文句も言わずに観戦していたと思う。
 一方、世の中は「第二の英会話ブーム」ということで盛り上がっていた。「第一」というのは戦後すぐのことだ。英語さえ話せれば、各国の選手や観光客と会話ができる、と思いこんでいる一部の人たちに煽動されて、英会話書を買ったり、英会話学校に通ったりした人々も少なくなかったようだ。こういうブームは、それによって儲かるはずの関係者が火付け役であることが多い。
 私が教えていたのは当時の東京教育大学附属中学校(現筑波大附属中)で、英語教育は伝統的にH. E. パーマー式のオーラルメソッドが主流だったので、教師も生徒も特に「話すこと」や「英会話」だけを意識することはなかった。そもそも「英語さえ話せれば」とか「英会話もできない」という意識はどういうきっかけで生じるのであろうか。日本の普通の中学や高校で6年間英語の授業を受けたところで、「ペラペラ話せるようになる」とは思わないのが常識であってよいのに、むしろ、「話せないのはおかしい」という声が大きい。しかも、そう考える人たちがマスコミ関係者に多いから、「学校がいけない」「先生が悪い」という批判になる。そして、英会話ブームの片棒を担ぐわけだ。そのくせ、自分たちは、あやしげな英語まじりの表記を許容している。
 幸い今度のオリンピック招致は、実現までの道のりは簡単ではないので、「英会話ブーム」には至っていないが、前回のオリンピックで、庶民にとってどのくらい英語を話すことが必要だったかを十分に反省しておく必要があるだろう。英語教師も常に反省すべきだが、学校の英語教育は一時的なブームとは無縁であってよいと思う。
(浅 野 博)

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