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浅野:英語教育批評:「自律学習」のこと

Posted on 2009年5月8日

 「自律」というと私はまず「自律神経」を思い浮かべる。呼吸や消化などを命令する生得的な神経組織だ。自分の意思の通りにはならない。
 英吾教育では「自律(的)学習」が強調されているが、「自律的なもの」を「教える」ことは可能であろうか、と私は疑問に思ってきた。草木を育てるときに、「根はこちらに伸ばせ」とか「花は来週咲かせろ」などと指示はできない。水や肥料をやって望ましい環境を整え、あとは草木の生命力に期待するしかない。
 そんなことを考えていたときに、旧友の土屋澄男氏(元文教大学教授)から、「第二言語習得研究と外国語学習—個人的経験から『自律』を考える—」という抜刷りを頂戴した。文教大学の紀要「英語英文学 36号」からのものだ。一読してすっきりした。その理由の主なものは2つある。(1)理詰めに論じていても、わかりやすいこと:理論的であろうとすると、説明がくどくなって、かえってわかりにくくなるものであるが、同大学大学院の言語文化研究科創立 10周年記念講演の原稿が基になっていることもあって、とてもわかりやすく、説得力がある。
(2)同年代の生活経験に共感することが多いこと:若い人にはわかりにくいであろうが、戦時中から戦後にかけての英語学習の様子には私には同感することが多い。特に占領軍のアメリカ兵に接したときのインパクトは、いろいろな意味で強烈だった。そして、戦時中に抑圧されていた知的好奇心が一気に目覚めて、「なんでも知ってやろう」という意気込みがあった。「知的好奇心」も本能的な能力の1つだと思う。
 土屋氏は「自律 (autonomy)」の語源を説明し、専門家たちの見解を総合した定義として、自律学習とは「自分自身の学習をコントロールする能力」とした上で、それでもクラスの中で誰が「自律的学習者か」という問いに答えるのは難しい、としている。この能力が、顕在的なものというよりも、「行動の下に潜む潜在的な能力だから」というわけだ。
 近年よく言われる「楽しい授業を」「面白いコミュニケーション活動を」というのは、よく反省すべきだ、と改めて思った次第である。その場では生徒は確かに英語を使ってはいるが、後まで残る学力にはなっていないことが多い。この問題解決には高度な専門的知識と技術が要るのだと思う。
(浅 野 博)

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