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浅野:英語教育批評:「質問に答えること」について

Posted on 2009年5月21日

 「その質問に答える」は英語では普通 “answer the question(s)” だ。麻生首相の場合は「質問をはぐらかす」ことが多いから、さしずめ、”dodge the question(s)” となろうか。私はこれでも弱いので、「責任を逃れる」などの意味のある ”evade” を使いたい気がする。
 「こんなに天下りのいる機関に十分な相談もなく予算を配分することをどう思うか」という野党の質問には、「天下りのことは別として、そりゃ一人や二人はいるかも知れんが、適切なところに適切に配分した、とそう思っております」のように答えたりする。
 質問に答えるということでは、教員もつらい立場にあって、予期していない質問を受けると、「そんなことは今尋ねるな」と言ったりする。しかも、そういう教員が試験にはとても意地悪な問題を出したりする。生徒はたまったものではない。
 民主主義の社会では、責任者は様々な批判にも“応える (respond)”義務がある。与党と野党の議員の間では、政権に就いているか、いないかの違いはあるが、同じ土俵の上の論争だ。しかし、選挙があるから世論には無関心ではいられない。いちばん部外者の批判に応えようとしないのは一部の官僚たちであろう。世論の攻撃を受けるのは政治家で、それを盾にして、陰で勝手なことができるからだ。
 「英語教育」(大修館書店)6月号で、元教科調査官の管正隆氏は次のように書いている。

(前略)様々な文部科学省批判や政策批判は目にするが、内部を見た自分にとっては、「何も知らないのによく書くね」と思ってしまう。特に大学の先生方の内容は浮世離れ、もう少し勉強してよね、と思うことさえある。批判することは簡単である。ただその批判の代案を明確な数字とともにだしていただかないと、「単なる文句言い」としか映らない。(後略)(p. 39)
 
 これは官僚たちの胸のうちとそっくりだと思う。「自分たちは予算の獲得や編成にものすごく苦労をしている。そんなことも知らずに勝手なことを言うな」という姿勢だ。もちろん批判のすべてが適切とは限らないが、素人にもものが言え、責任者がそれに真摯に対応するのが望ましい民主主義社会であろう。そうでなければ、問題があるにしろ「裁判員制度」などは生まれないはずだ。同じ号の「英語教育時評」で鳥飼玖美子氏(立教大学)は、新指導要領について教授法の観点から、「その中身は本当に新しいのだろうか」と疑問を呈している。これをも“単なる文句言い”と見なしてよいであろうか。菅氏も大学教授になられたようだから、じっくりと“浮世離れ”した世界を勉強されてはいかがかと思う。
(浅 野 博)

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  1. 浅野先生、ご無沙汰しております。

    >素人にもものが言え、責任者がそれに真摯に対応するのが望ましい民主主義社会であろう。

    まさに同感です。自分が権力となっていることに無自覚な意志決定者に対して、市井の人々の声を届けるのもメディアの役割だと思うのですが、昨今のこの雑誌そのものが上意下達の官報ような存在に感じられてなりません。
    >批判することは簡単である。ただその批判の代案を明確な数字とともにだしていただかないと、「単なる文句言い」としか映らない。

    というのですが、彼がまだ文科省に席があった時の新指導要領に関するパブリックコメントにしたところで、多くの方からの具体的な批判を黙殺している現状では、説得力はありません。

    浅野先生の世代の英語教育者の方たちの声をもっと聞きたいと思います。

  2. 松井さん、コメント有難うございました。「批判するなら代案を出せ」というのは、政権与党の言い分です。自分に権力があるなら、それだけ責任もあるという、ごく平凡な事実が分からない人が多いのは残念なことです。
     先日私たち東京高師の英語専攻者が集まって恒例の昼食会を持ちました。集まったのは8名と少ないですが、今回は生存者 32名全員が葉書で近況報告をしてくれました。出席者には、全英連の会長をした稲田宏君、語研の理事長だった土屋澄男君、「茅ヶ崎方式英語会」の創始者松山薫君(元NHK)、英語会話の達人田崎清忠君などがいて、話題はもっぱら英語教育のことで、来年はホテルに泊まり込みで、議論をしようということになりました。いずれブログでも少しずつ紹介していきます。


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