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浅野:英語教育批評:「デジタル」で思うこと

Posted on 2009年5月27日

 ある放送局の視聴者の批判や疑問に答える番組で、「なぜ視聴者に経済的な負担までさせて、デジタル放送など始めるのですか」という質問を紹介していた。局の担当者の回答は「携帯の普及で電波の余裕がなくなったが、デジタル放送にすると情報量が増えて、視聴者も参加できる双方向放送も可能になる」といった趣旨のものだった。これでは、質問した視聴者の「今のテレビで満足しているのに、どうしてわざわざ新しい機器を買わなければいけないのか」という疑問の答えにはなっていないと思った。
 確かに、「デジタルとは何か」というのを説明するのは難しい。マスコミが好きな『広辞苑』では「デジタル」を次のように定義している。
 「ある量またはデータを、有限桁の数字列(例えば2進数)として表現すること」
 これでは一般的な素人にはとてもわからない。ちなみに『マクミラン英英辞典』では、
“storing information such as sound or pictures as numbers or electronic signals”(音や映像といった情報を数として、つまり電子的信号として蓄えること)
 これなら国語辞典の定義よりは分かりやすい。国語教育では、もっと「ことばの定義」というものをしっかりと教える必要があるのではないか。小説のほんの一部を読ませて、「このときの主人公の心境は次のどれか?」といった問題を多用する入試も同罪である。
 以前に「アナログ」か「デジタル」かが問題になったときは、まず時計(時刻)の表記が話題になった。私たちには、数は1,2,3,4,5…のように続くものという意識がある。時計の文字盤は 12 までだが、そうなっている。これが「アナログ」だ。デジタル時計では、12:23 のような数字で示される。このほうが分かりやすいという見解と、これでは、1時まであと何分かがわかりにくい、という見解が対立した。抜け目のない時計メーカーは、文字盤の下部にデジタル式の数字を示す両用のものを発売したりした。実際は、テレビ画面の時刻表示はずっと前からデジタル式だった。こういう身近なものを利用して、素人にも分かる「説明」を心がけることも必要であろう。
(浅 野 博)

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  1. 広辞苑じゃだめですね。
    それより三省堂の新明解です。

    広辞苑信奉も日本人の悪い癖の一つです。


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