言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「理想の学校」を訪問

Posted on 2009年4月30日

 旧友が私立学校の校長になって5年経ってから、やっとその学校を訪問する機会を得た。小中高一貫校で人気がある。早速校長が教室を案内してくれた。
 最初は小学校5年生のクラスで、どれも20人以下。そのクラスで先生が教えていたのはエスペラントだった。
校長:何か新しいことばを教えるには、全員が知らないものがよいのでエスペラントにした。創始者ザメンホフの意図を教える機会にもなるし。英語だと学習経験の有無が学力差になって、遅れる子は英語が嫌いになる。もっとも、本校にわが子を入れたいという親が、「エスペラントを教える塾はありますか」と電話をしてくることがよくあるけれどね。
 次は、中学2年の理科のクラスで、4,5人のグループに分かれて、大きなガラスケースの中を観察していた。そこには、都会ではほとんど見られないクモの巣があって、虫を入れ、それが網にかかるとクモが出てきてすばやく捕らえていた。しかし、その授業の目的は、インターネットを教えることにあった。
校長:廻りくどいかも知れないが、いきなり「ウェブ」とか「ネットワーク」とかですませるのではなく、そういうことばの元の意味から考えさせることをねらっている。でも今の日本語はカタカナ語が多すぎるね。
 最後は高校1年の国語の授業だった。「財政危機」はどういう意味か、ということで、生徒は辞典でそれぞれの文字の意味を調べていた。そして、「危」は「あぶない」という意味で、「機」にはいくつもの意味があることを発見していた。
校長:指導要領では、「訓読み」は教えても、「音読み」はまだ教えないといった矛盾がある。四文字熟語など棒暗記するよりも、個々の文字の意味や読み方を知ったほうがわかりやすいはずだ。書かせるときは、書きやすい基本的な筆順は教えるけれど、あまりこだわらない。英語の単語でも文字と音の仕組みをきちんと教えるべきだ。そうすれば、英文をもっと楽に読めるようになる。コミュニケーションの力はまず母語でつけるようにしている。

 出版されたばかりの行方昭夫編訳『たいした問題じゃないが—イギリス・コラム傑作選—』(岩波文庫)の一編に、E.V. ルーカスの「思いやり学校」(“The School for Sympathy”) というのがあって、
上記のものはそれを模した「偽エッセー」である。本物には、生徒が眼帯をつけたり、杖をついたりして、身体障害者の世界を体験する1日があることが記されている。およそ百年も前の文章から学ぶべきものが多い。多数の人に読んでもらい、考えてもらいたい1冊である。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「大山鳴動して・・・」

Posted on 2007年5月29日

 5月中旬に、人気テレビ番組の1つ「学校へ行こう」(TBS系)では、武庫川女子大附属中学高校を紹介していた。女生徒のみ2,500名という大きな学校だが、特に部活が活発で、マーチングバンドやバトントワーラーの演技など見事だった。授業でもいろいろな試みがなされていて、「スーパー・サイエンス・ハイスクール」として理科教育では特別な実践をしているようだった。
 5月20日の早朝には、「表 博耀(おもて・ひろあき)の華麗なる挑戦」(フジテレビ系)を見た。このアーティストは“温故創新”をモットーとしていて、茶道や衣装などの新しい創造美は、イタリアやフランスでも注目されているとのこと。
 こういう活躍を知ると、日本も捨てたものではないという気持ちになり、若い人たちへの期待も高まる。ただし、現在の日本は良いところばかり見て喜んでいられないという現実がある。英語教育だけに限ってみても、戦後60年の歩みは、なんと紆余曲折の道のりだったことか。英語教師に主体性がないからだという批判は甘んじて受けよう。しかし、指導的立場にあった人たちにも責任はあろう。サマセット・モームは『サミング・アップ』の中で、「バートランド・ラッセルは文章がすばらしく、好みの哲学者だった」としながらも、読み進むにつれて、彼の注文が次々と変わる様子を述べて、首尾一貫していないと指摘している(行方昭夫訳『サミング・アップ』岩波文庫、p.296)。
 英語教育を導いてきたのは、一人の人間ではないが、「注文が変わる」点は似ている。「訳読式でよい」「実用的な英語を」「せめて会話ができるように」「コミュニケーション能力を」「英米一辺倒からの脱却を」「文法をがっちりと」「国際英語を学ぼう」「英語教育は小学校から」「小学校ではもっと国語を」などなど。「大山鳴動してねずみ一匹」である。これはやはり教育政策の失敗、つまり政治の責任ではないか。もっとも、年金問題と同じで、過去の責任はだれも取ろうとはしないのが政治なのであろうが。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:教師と年齢のこと

Posted on 2007年2月21日

 友人の行方昭夫さんが、モームの『サミング・アップ』(岩波文庫)の翻訳を世に問われた。私が新米の英語教師の頃(1955年前後)には、モーム・ブームがあって、入試問題にまでモームが出るというので、高校生相手に短編などを読んだものだ。当時の高校生は英語の力は弱くても、知的好奇心は強くて、懸命に努力してくれた。しかし、今この新しい翻訳で読み直してみると、複雑な心境になる。3章には次のような一節がある。

 青年時代には、年月が自分の前方にずっと続いているような気がして、終わりなどありそうに思えない。中年になってからでも、最近は寿命が延びているので、やる気はあってもあまりやりたくないことは、何か口実を探して先延ばしにしようとする。だが、自分が死ぬことを考慮に入れなければならない時機が遂にやってくる。(p. 15)

 この好奇心旺盛な作家は、自分の過去を振り返って文章にまとめるようなことは、やろうと思ってもなかできなかったと言っているわけだが、若い時代には「老人になること」は実感できないものだ。歌謡曲にも「青春時代が夢なんて、あとからしみじみ思うもの」という名文句がある。なぜこんなことを言い出したかというと、この新訳で読み直してみると、モームの視野の広さと人間観察の巧みさに改めて驚かされ、若いときと違う印象や解釈を得られた気がするのだ。昔は、生徒よりは英語力が少しましという程度で、指導をしたが、内容理解という点では、生徒とあまり変わらなかったのではないかと“複雑な”心境になったのである。でも、若い教師には、「若さ」は生徒の気持ちがわかる長所として捉え、努力してもらいたいし、年配の教師には、生徒の経験していない「人生」の師としての役割を果たしてもらいたいと思う。
 訳者の行方さんは、対訳を出された頃の恩師朱牟田先生の年齢が、今の自分よりもかなり下であることに気づくと「忸怩たるものがある」(p. 371)と言われているが、それだけに、深い内容理解にともなう読みやすい訳文になっていると断言できるし、「解説」も見事なものだと思う。
(浅野 博)