言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「基礎・基本」の考え方(その1)

Posted on 2008年3月26日

 英語教育の用語も定義が明確でないので、余計な混乱を招くことがある。指導要領では、「学習活動」に代わって「言語活動」(1969)が示されたので、「言語活動とは何か」という議論がしばらく続いた。その後は、「概要、要点」(1977)が強調されて、しかも、「概要」は2学年で、「要点」は3学年でと分けたので、余計混乱を招いた。もともと「あらすじ」のような教材で、「概要をとらえながら聞いたり、読んだり、話したりせよ」と言われても、どうしてよいか迷うのも当然だ。その後は「概要や要点をとらえる」と一緒になったが、それまでが、間違いだったと認めたくない苦肉の策である。
 そもそも「言語活動」は「学習活動」の後に続くもので、「音声や文型なども含めて、総合的に行わせるものであり、言語の実際の使用につながるものである」と説明されていた。その後「コミュニケーション(活動)」なども加わり、基礎的な練習としての「学習活動」はますます軽視されていったように思う。
 「基礎・基本」とは何かの議論もあったが、私は、微妙な相違点は類語辞典にまかせて、この場合は単なる同意語の繰り返しと考えている。「基礎的な訓練」が必要なのはどの教科も同じであろう。英語教育の場合は、それがどうも十分に実践されていない感じがするのはなぜであろうか。よく耳にする理由は「時間が足りない」だ。しかし、スポーツの選手が、時間がないからといって、基礎訓練をおろそかにすれば、勝てないばかりではなく、怪我をするような事故にあうことも多いはずだ。英語でも基礎訓練をしないでいきなり言語活動から始めたら、つまずくことが多くて、能率があがらないはずである。かつて指導要領は英語の授業時間を減らした対策に、「概要、要点がわかればよい」とした。円の面積を出すのに「円周率は3でよい」というのと似ている。間違いではないが、「正確さ」からは遠ざかる。とは言っても「英語の正確さ」の基準についてもコンセンサスがない。まさに混沌としている。
(浅 野 博) 

浅野式辞典:「てつこ」(鉄子)

Posted on 2008年3月24日

老人:「徹子の部屋」の徹子ね。あの人も古いけどがんばっているね。
中年:鉄道好きの女の子のことじゃないかな。よくわかんないけど。
若い女性:さえない名前。電車男の相棒みたいでいやだよ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「4技能+アルファ」のこと

Posted on 2008年3月18日

 学習指導要領(中学校英語)の総括目標では「…聞くこと、話すこと、読むこと、書くことなどのコミュニケーション能力の基礎を養う」となっていることを2月19日号で問題にした。つまり、この「など」が何を想定しているのかがわからないからである。
 そうしたら、「英語教育」2008年4月号(大修館書店)が、「授業にプラスαの要素を!〜『5技能』組み合わせのすすめ〜」という特集をして、その実例を示してくれた。ただし、この特集は、指導要領(案)が示される直前に書かれているので、中央教育審議会の答申に基づいている。指導要領でその趣旨が変わったわけではないから、そのこと自体は問題ないが、私はこの特集記事にはかなり異論がある。
 まず「5技能」は何を表すのかという問題がある。実例として「4技能」+「考える力」(p.14)、および+「異文化交流力」がある(p.30)。それでは、「話すこと」を訓練するときは、何も考えなかったのか、How are you ? という挨拶を教えるときは異文化には全く触れなかったのか、といった疑問が沸く。異言語習得の段階には、「機械的な練習」も必要である。この段階では、変な理屈は言わないほうがよい。ある程度「型」が身についたら、状況に応じた適切な表現をするために、思考力や文化理解力が要求されることは確かだが、それらは、4技能それぞれについて廻るもので、切り離して考えるのには私は反対である。
 かつて指導要領は長年にわたって「4技能3領域」にこだわり、「聞くこと・話すこと」は1つの領域として指導することが望ましいとしてきた。そのために、特に中学校段階では「聞くこと」の指導は軽視されてしまった。それが、平成元年の改訂でやっと「4技能の指導」となったのに、答申では「4技能の総合的な育成」などといっているので、また元の木阿弥に戻る恐れがある。こうした傾向に安易に妥協することなどしないで、特に指導的な立場にある英語教員のいっそうの自重した対応を求めたい。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「いちじふさいり」(一事不再理)

Posted on 2008年3月12日

高校生 A:よくわかんないけど、前のテストと同じ問題は出すなっていうことだろ?守らない教師が多いけどさ。
高校生 B:ある高校に合格したのに、別の高校で不合格にしてはいけないということだよ。受験戦争を止める方法だよね。守られていないけど。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word★★

浅野:英語教育批評:「用語」の魔力

Posted on 2008年3月11日

 敗戦直後は「民主主義」「主権在民」「戦争放棄」など当時の日本人には魅力のある用語があふれていた。「自由平等」もその1つである。しかし、2、3年もすると「反動勢力」「再軍備」「日帝」などの言葉が聞かれるようになった。ただし、日本ではこれらの用語の厳密な定義や問題点を十分議論することはなかったように思う。この傾向は今日でも同じで、日本人の民族的性癖と考えてもよさそうである。もちろん、一部の学者や評論家は細かく論じることがあるが、
一般的な常識にはならないのである。
 「自由平等」という熟語はないはずだ。自由であれば、平等ではなくなり、平等であれば自由ではなくなるのだから、相反する用語を繋げることは無理なのだ。しかし、一部の日本人は「平等主義を徹底させる自由がある」と勝手に解釈をして、運動会のかけっこでは、「みんな手をつないでゴールインしましょう」といった指導をしたとされる。あるいは自分のクラスの授業をせずに自習をさせて、「私は生徒の自主性を育てている」などと言う教師もいた。
 アメリカは「出発点は平等で、あとは自由に競争する」ということで、この「自由と平等」の問題を解決しようとした。確かに、「丸太小屋からホワイトハウスまで」という理想はリンカーンによって実現されたりもした。これは“アメリカンドリーム”だ。でも、その背後には大勢の「夢破れた敗者」が誕生したはずである。つまり民主主義というのは、独裁よりはましということで、最善の方法ではないわけである。この問題は、少し古いところでは、阿部斉『デモクラシーの論理』(中公新書、1973)がくわしく論じているし、最近のものでは、佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』(ちくまプリマー新書、2007)がある。なんでも会議にはかって、多数決で決めることが最善と信じて疑わない日本人社会では、“責任の所在”があいまいになってしまった。それが一部経営者の独裁的経営と道徳的退廃を招いていることをもっと認識すべきであろう。
(浅 野 博)