言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「やくぶつしもん」(薬物指紋)

Posted on 2008年2月13日

 毒殺事件で使用された薬のビンから犯人の指紋が見つかるということだよね、よくある話だ。えっ!違うの?「分析によって薬物の製造元を突き止めること」だって?そんな「指紋」の意味は聞いてないよ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word

浅野:英語教育批評:若者指導の落し穴

Posted on 2008年2月12日

 私は50年ほど前には約60名の大クラスの高校生を教え、5年前には 25名程度の大学のゼミクラスを教えたが、前者のほうがずっと指導しやすかった記憶がある。昔の学校にも不良学生はいたが、彼らなりの“仁義”があって、クラスで先生に反抗することはなかった。しかも、保護者の先生に対する信頼感はとても厚く、教員としても襟を正さざるを得なかった。
 現在は、携帯電話やゲーム機など、授業より興味を引くものを教室に持ち込める。そうでなくても、大クラスでは、私語、居眠り、お化粧など授業をサボる手はいくらでもある。
 70年安保闘争が下火になった頃から、「高校生の三無主義」ということが言われ出した。これは彼らの「無気力、無関心、無責任」な態度を指していた。その後「17歳」という年代が問題にされたこともあった。わが国では多くの問題が「分析はされるが、対策がなされない」ので、彼らがそのまま大人になり、社会の中心的存在となれば、世の中がおかしくなるのは当然のことなのだ。
 1997年には和田秀樹『受験勉強は子どもを救う』(河出書房新社)という本が出て、「受験勉強が諸悪の根源だ」とする見解にはなんら根拠が無く、受験勉強でノイローゼになるのは受験生の1%(当時は約1万人に当たる)に過ぎないとし主張した。さらに、受験勉強を経験した人間のほうが、この時期を野放図に過ごした人間よりはるかに精神的に健全であると説く。著者が灘高、東大出身の精神科医となると、こう主張するのもうなずける。後に著者はいくつかの勉強法を説いて、自分が決して秀才ではなかったことを強調しているが、問題は、この書物には受験制度とか受験問題とかへの批判がほとんどないことである。それは精神科医の仕事ではないかもしれないが、社会現象を論じるのに、一つの視点からだけものを見ていたのでは意味がないのではないか。しかも、現在の受験競争は幼稚園児などの低年齢層に及んでいる。若者指導の話には、大きな落とし穴があることは十分に意識すべきであろう。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「つなぎとうあん」(つなぎ答案)

Posted on 2008年2月8日

 試験で不合格となっても、再試験で前の答案を修正したものを出すと合格にしてもらえる制度とその答案のこと。「つなぎ法案」のもじり。(以上「平成悪魔の辞典」より)

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano's Japanese Dictionary of Current Word

浅野式辞典:「よるすぺ」(夜スペ)

Posted on 2008年2月6日

 昭和では「風俗店の特別サービス」を意味したが、平成では公立中学校の生徒が受ける「夜間特別授業」のこと。別料金を取られることに共通点がある。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「一事が万事」ということ

Posted on 2008年2月5日

 最近はこの言葉を耳にすることは少なくなった気がするが、日本人の意識の底には根強く流れている考え方ではないかと思う。文字通り「一つの事であとのすべてが推測できる」ということだが、実際は良いことにはあまり使わないようだ。政界では、野党が政府の法案に“条件付き反対”などと言っても訴える力がない。“絶対反対”か“全面的賛成”でないとダメなのだ。郵政民営化がそうだった。だから、途中の議論が抜け落ちてしまう。
 学校の教師は、生徒のことをテストの成績だけで判断しがちである。卒業生のうわさをして、「あいつは泳ぎが不得意だった」とか「音痴だった」とかいうのは、「でも勉強はできたね」と続く可能性がある。しかし、「勉強ができなかった」は「どうしようもないね」になってしまう。しかも、この場合の「勉強」は、限られた受験科目とそのテスト結果だけを意味している。
 日本ではあまり適切な「書評」が育たないと言われる。書物の欠点だけを指摘すると、著者は全人格を否定されたように思って猛烈な反論をしてくるので、議論にならなくなる。「英語教育」誌上でも、書評をめぐってかなり感情的なやり取りが行われたことがあった。今日では、議論のやり取りは2往復くらいまでと編集部のほうで決めているようだ。感情的な発言では、他の読者には迷惑なのは確かだが、授業ではコミュニケーションとかディスカッションとかを口にする英語教師がまともな議論ができないのである。
 こういう傾向が生じるのは、日本人が幼い頃から「一事が万事」という判断が横行する環境で育ってきたからであろう。「英語が話せない」というだけで、「英語教育はダメだ」ということになる。「話せないけれど読める」とか「書ける」でもいいではないか、という考え方があってよいはずだ。しかし、今の時代では英語を話せる人材が必要なのも当然である。「生徒の個性」とか「学習者のニーズ」などと言うならば、特に高校では、もう少しおおらかな指導方針の実践を考えてもよいのではなかろうか。
(浅 野 博)