言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「しゅふりょくけんてい」(主婦力検定)

Posted on 2008年1月31日

 こんな検定が計画されていると聞いて、小中学生に母親に期待する主婦力を尋ねた。その回答のうちのワースト3は:
No.3:まずい料理など作らないで、毎晩ファミレスに連れて行ってもらいたい。
No.2:給食費なんか払わないで、おれの小遣いにしてほしい。
No.1:親父に大きな保険をかけて、早く手に入るようにしてくれ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「空気を読む」について

Posted on 2008年1月29日

 最近は「KY」で「空気を読めない」を表わし、「あいつはKY だ」などと使う。「空気」が「雰囲気」を意味するのは昔からたが、「KY」などが流行るのは「空気を読めない」人たちが増えているからであろう。
 そういう人たちの好例は政治家だ。例えば、本会議での代表質問などはほとんど無意味に思えるが、改革しようという声は聞かれない。テレビに写る首相の顔を見ても真剣に聞いているとは思えない。答弁は用意された原稿を読むだけだから聞く必要がないのだ。議場は野次と怒号が飛び交うことが多く、居眠りをしたり、欠席をしたりしている議員も少なくない。そんなことに2日も3日も使う無駄を反省する議員もいないようだ。だから「国民の声は…」などと安易に言ってもらいたくない。
 「空気を読むこと」が必要なのは教師も同じだ。名簿順で分けたクラスでも雰囲気に違いが出ることが多い。授業のときはうるさいくらい活発なクラスもあれば、静かでおとなしいクラスもある。活発なクラスが試験をしてみると意外と成績が悪くてがっかりすることがある。ましてや個々の生徒の心の内を知ることは難しい。それでも日々指導の改善に努力している教師はいるはずだ。
 「英語教育」2008年2月号(大修館書店)は、「自律的学習者を育てるための教師の役割」を特集している。「オートノミー」がキーワードで、その定義や実践上の問題点が論じられ、それぞれ示唆に富む考え方や実践例になっている。
ちょっと気になったのは、「eラーニングで自律的学習者は育たない?」で、筆者の亀山太一氏は、「今の若者はゲーム世代だから、eラーニングなら学習意欲も高まり、自発的に学習する」というのは迷信である、と述べている。間違いではないが、機器と学習の関係は、機器の導入が本格化したLLの時代 (1970~) から問題にされたことで、一方では「機器が動機付けとして役立つ」ことも実証された点がある。人間教師に代わる万能な教材や機器はまだあり得ないが、もう少し視野の広い論評を望みたい。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「かそうてきこく」(仮想敵国)

Posted on 2008年1月23日

 軍隊を持つ意味を「仮想敵国」を使って高校の先生が説明していた。
生徒 A(「欽ちゃんの仮装大賞」しか思いつかなくて):あの仮装大会に戦争の場面があったかなあ?
生徒 B(テレビゲームに熱中していて):僕なんかいつも仮想敵国と戦っているものね。
生徒 C(受験勉強に没頭していて):俺の仮想敵国はX大学だ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:「異文化理解」を教えること(その2)

Posted on 2008年1月15日

  25年ほど前のことだが、学習指導要領の「国際理解」のことが話題になったとき、同僚の応用言語学のアメリカ人とそのことを話し合ったことがある。
(1) international understanding
(2) intercultural communication
の2つを彼女に示して意見を求めたところ、「国際理解」に当たる英語としても、(2)のほうが今後使用していくことが望ましいと主張した。日本人は「国際化」「外国語教育」のように「国」を使った言い方を好む傾向がある。最近のヨーロッパのように一体化が進むと「国」の意識は弱まるのではないかと思われるが、彼らには「アイデンティティ」という意識があって、「個」というものが異文化交流の中で埋没してしまうことはあまりないようだ。日本人は仲間意識が強く、「国」への依存心があるから、「個」を強調する「アイデンティティ」という概念は分かりにくいし、育たない。
 前回紹介した『変貌する言語教育』(くろしお出版)の第2章には、細川英雄「日本語教育における『学習者主体』と『文化リテラシー』形成の意味」という論文がある。そこでは、戦後の日本語教育の変遷が一覧表にして示してある(p.28)が、要点だけ示すと、A.60〜70年代「何を?」、B.80年代「どのように?」、C.90年代〜「なぜ?」として、目標と形態はA.「内容/ 構造化」「教師主導」、B.「教育方法/ 機能化」「学習者中心」、C.「教育関係/ 活動化」「学習者主体」となっている。Cの段階が、細川氏の論点で、本書の他のところでも論じられている。
 英語教育では、「動機づけ」や「学習者中心」に関する書物は少なくない。「学習者主体」というのは当然のこととしているのか、これをまともに論じたことはないように思う。早い話が、学習者なくして教師はないのだから、主体はあくまでも学習者であるべきだが、そのことを「理念」としても確立する必要性を感じさせる問題提起のように思う。
(浅野 博)

浅野式辞典:「しょうひしゃちょう」(消費者庁)

Posted on 2008年1月9日

 こんな新しい省庁を作ろうかという動きを聞いての消費者の言うには、
消費者 A :活舌の悪い政治家のための早口ことばじゃないの?
消費者 B :この場合の「消費者」は、税金を無駄使いする役人のことだよね。本当の消費者はまたバカを見るわけだ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★