言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野:英語教育批評:「語法研究」とことばの偏見

Posted on 2007年6月19日

 「英語教育」(大修館書店)の7月号は「語法研究の楽しみ」を特集している。ある語法の正否を論じるには、何か規範がなければならない。この特集の寄稿者の規範は英米語のそれである。研究のあり方としてはそれも許されるであろう。ただし、同じ雑誌に「国際英語の視点を授業に」というアジア英語学会の人たちの連載記事があって、各号の執筆者によるニュアンスの違いはあるものの、「英米語中心主義」への強い批判が感じられる。「語法研究の楽しみ」を説く人たちは、こういう記事の呼びかけをどう考えておられるのであろうかという疑問が湧いた。
 第6回(6月号)の執筆者田嶋ティナ宏子氏は、「日本人の多くが、イギリス英語やアメリカ英語が『正統な』英語と考え、それ以外の英語は、『訛っている』とか『変な英語』だと思ったりする傾向があるのではないか」と問いかけている。英語の語法研究者がすべてそういう傾向にあるとは思わないが、教室で指導するときに、「イギリス人はそうは言わない」とか「こんな言い方はアメリカ英語では認めていない」といったことを繰り返していると、「それ以外の英語は“変な英語”」という偏見を植え付ける恐れは多分にあると思う。
 実はことばに関する偏見は、もっと早くから始まっていて、小学校などのいじめには、方言が原因になることがあるようだ。転校生が方言で話すと、発音がおかしいということで、周囲の生徒が笑ったり、からかったりするのである。そういう土壌で、「英米語一辺倒」の教え方をしたら、ますますことばの偏見が育つ可能性は大きい。
 私自身は、米語を中心に教えても、扱い方で偏見は除去できると考えているが、望ましい成果をあげるのは道遠しという感は否めない。一方では、「多様化した英語になるべく多く触れて偏見を持たないように」という主張は正しいと思うが、生徒がどういう英語を使えるようになるのかはまた別な大問題だと感じている。
(浅 野 博)

浅野:英語教育批評:「脱英米」英語教育のこと

Posted on 2007年6月12日

「アメリカ英語のような大言語は、帝国主義の言語だから教えるべきではない」とか「国際化の中では、英米一辺倒は避けるべきもの」という趣旨の主張は強い。「強い」といっても、意識的にそういう趣旨の本や記事を読めばの話で、多くの英語教師は無関心のように見える。無関心と言って悪ければ、そこまで考える余裕がないほど日々の教育活動に追われている。
文科省のほうは、「日本人に英語力をつける」という方針を着々と実践に移していて、中学校英語の必修化、小学校の英語活動実践、英語教員の研修などが実現している。一方では、特区やプロジェクト制度などによって、学校の多様化を図り、結果的には英語力ばかりでなく、学力全般の格差を生んでいる。
では“理論的反論”のほうはどうであろうか。「ペンは剣よりも強し」とは昔から言われているが、ほとんど無力である。民主主義社会では選挙結果がすべてなので、与党優勢の現状では、反対論はほとんど無視されてしまう。安倍首相の施政方針演説には「カタカナ語」が百以上使われていたそうだが、英語信仰者にとっては、「かっこいい!」ということになる。会話学校がネイティブ信仰のTVコマーシャルを流せば、多くの視聴者はひとたまりもない。おまけに小泉前首相のように、「ブッシュ一辺倒」で、自衛隊の海外派遣まで実現させてしまえば、英語教育で「英米一辺倒反対」と叫んでみたところで「千の風」にもならない。反対論などどこ吹く風だ。
「脱英米化した英語教育」は実体がわからないから説得力がない。「アジアの英語に目を向けよ」という声もあるが、もちろん偏見を持たないようにすることは大切だが、多くの日本人がフィリッピン英語やタイ英語を学ぶというのは現実的であろうか。タガログ語やタイ語を学んだほうがはるかによい。挨拶や自己紹介くらいならともかく、片言の英語でアジアの異文化を相互理解するなんてできるはずがない。日本の言語教育の考え方はどこか狂っていませんか。
(浅 野 博)

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浅野式辞典:「くーるびず」(クールビズ)

Posted on 2007年6月8日

 今さらと思う用語だが、実践のほうは政府の思うように進まないようだ。今年の衣替えの日は、与野党の服装の違いが違和感を与えた。いっそのこと「与党服」と「野党服」に分けたらどうかしら。多数決もわかりやすいし。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:初心忘るべからず——教育機器と授業

Posted on 2007年6月5日

 この頃は企業のプレゼンテーションではパソコンのパワーポイントなどを使うのが主流になっていて、授業や研究発表でも使う教員が増えてきている。しかし、機械はいつ故障するかわからないので、プリントした資料などバックアップがないと困ることもある。もともと「プレゼンテーション」は授業では必須の技術だ。教材の提示、説明事項の整理、出題や正答の確認など種類も多く、その際の主役は黒板だった。名称は古臭いが、その「便利さ」はホワイトボード(これにも弱点があるが)にも受け継がれている。
 1970年代頃から盛んに使用された機器にOHPがある。提示資料を事前に準備できること、その資料を瞬時に入れ替えたり、繰り返したりして提示できるなどの長所のために、教室にも急速に普及した。しかし、短時間に多くの情報を提示するために、学習者はノートを取ることも出来ずにぼんやりしていることもあった。また、50人ものクラスサイズでは文字が見にくいとか、直射日光の当たる部屋では適さないとかの弱点があった。教室のカーテンや照明まで変える予算がないから、機器の機能が十分に発揮できないことがあった。こういう環境整備は予算さえ取れれば解決できるが、最大の問題は、教師の教える能力にあると思う。
 つまり、黒板をうまく使えない教師は、OHP もうまく使えないし、パソコンでも失敗する。それと、英語教育では、どういう提示機器を使うかという以上に、提示するのは文字かその他の映像か、音声か文字かといった問題が大切で、こうしたことに関する明確な方法論がないと授業が効果的にならない。このような問題は、テープレコーダやLL(語学ラボラトリー)の利用の場合にも見られた。現在は、「紙の辞書」と「電子辞書」との関係にも新たな問題がある。機器は常に進歩する。しかし、外国語教育の基本的な考え方はそう急速に変わるわけではない。英語教師にとって、「初心忘るべからず」はどんな段階でも大切なのだ。
(浅 野 博)

浅野式辞典:「とくたいせいせいど」(特待生制度)

Posted on 2007年5月31日

 ある学校では、「特大生」と呼んで、特に体が大きくてスポーツに適した生徒を優先的に入学させてきた。昔から目立っていたのに、今になって野球部の選手だけ罰を受けるのだそうだ。やはり「特別待遇」だ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★