言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「わたしのしごとかん」(私の仕事館)

Posted on 2007年1月19日

 厚生労働省の役人たちが、京都に数百億円で建てた天下り先を図々しくもこう名づけた。つまり「私の」は「自分の」ことなのである。そして何も仕事はしないで、何十億円という赤字を出して閉館するようだ。職業を学びたい中高生もあきれて近づかなかった。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野式辞典:「ざんていぜいりつ」(暫定税率)

Posted on 2007年1月16日

 そもそも「暫定(的)」は「一時的な、臨時の」ということだが、政治の世界では「恒久的な」に近い。「ガソリンの暫定税率」はまだ続けるという声がある。でも「暫定減税」はさっさと止めた。用語の勝手な解釈だ。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野式辞典:「けいちゅう」(ケイ中)

Posted on 2007年1月16日

 これだけでは何のことかわからない。実は「携帯(電話)中毒」のことらしい。これでは、中学校の名前を「○○中」などと呼べなくなってしまう。昔からの「アル中」(アルコール中毒)を真似したのであろうが、こんな言い方をする人たちは「リャク中」(省略中毒)にかかっているに違いない。

★★浅野式「でたらめ現代用語辞典」Asano’s Japanese Dictionary of Current Words and Phrases Flippantly Defined in Disorderly Order★★

浅野:英語教育批評:英語教育とコンピュータ(その1)

Posted on 2007年1月15日

January 15, 2007

 「語研だより21号」(2006/12) に、草間浩一氏(武蔵高校中学)による「CALLはどこに行った?」というエッセーがある。CSI (Crime Scene Investigation) というテレビドラマのシリーズなどでは、いかにコンピュータが活躍しているかを述べ、今や日常場面でもコンピュータの利用はめざましいのに、「なぜかコンピュータを使った英語教育 (CALL) はパッとしない。結局一斉授業に使おうというのが無理なのかもしれない」と疑問を呈している。
こういう疑問は1970年代の LL(語学ラボラトリー)についてもよく発せられた。音声言語の学習に適した機器であることはわかるのだが、LL となると適切に使いこなせない教員が多かったのである。教育機器は膨大なエネルギーを発揮してくれるのだから、授業での教師の労力は軽減され、その浮いたエネルギーは、個人指導や教材準備などに廻すことができるということで、私は「教授エネルギーの分布変化」ということを唱えたものだった(拙著『LLと英語教育』東京書籍、1976)。事実、私自身は普通教室の授業よりもLL授業のほうが“楽だった”という印象が強い。
 実際には、「LLなど導入したらもっと多忙になって、大変だ」という声が強かった。それは教育管理責任者が「人」への配慮をしないからである。例えば、本を買う予算が貰えても、管理運営する「人」がいなければ図書館は成り立たない。LL もコンピュータ教室も同じなのである。ところが、「物」の予算は認められても、「人件費」は昔から獲得しにくいのである。私は、勤務先の私学でも国立でも、かなり恵まれた環境だったからよかったものの、多くの場合「金」と「人」の両立は難しい。ましてや学校管理制度がばらばらなってしまった現状では、余計に困難であろう。なお、草間氏の一文は、コンピュータの機能と授業の関係に疑問を呈しているので、このことは次回に考えてみたい。
(浅野 博)

浅野:英語教育批評:英語教師と「英語を話すこと」

Posted on 2007年1月10日

 「英語教育」2006年12月号(大修館書店)の「英語教育時評」で、静哲人氏は学会などの研究発表について、司会の仕方や質疑応答を含めて批判をしている。私には大いに賛同できる見解である。
 国会の委員会の質疑応答などはもっとひどい。答える側の大臣や官僚はいちいち挙手をし、議長が指名をし、数秒かけてマイクの前に行き、答弁は2,3秒ということがよくある。どうしてアメリカの議会のように、マイクの前に座ったままポンポンとやり取りが出来ないのであろうか。そうかと思うとテレビの討論番組には、勝手に大勢が発言して誰が何を言っているのかわからないような、全く視聴者を無視したものがある。
 それはともかく、ここで取り上げたいのは、静氏が第1に述べている「英語教師なのになぜ英語で発表しないのか」という問題提起である。氏の「限定的英語公用語化論」は2005年12月号でも紹介されたが、「大賛成」という高校教諭からの投書が、今年の1月号のFORUM に掲載されている。
 こういう主張はかなり以前からあったのだが、全体的には実現しているとは言えないようだ。私自身も、かつての文部省主催の中・高教員対象の指導者講習会では、「すべて英語で」という指示に従って、10年以上も実践したことがあるのだが、本心では、「英語を使うのは時と場合によって」という考え方をしている。
 学校の英語教育は、日本語と英語の二言語話者(かなり不完全なものであっても)を育てることが目標と考えているので、適切な日本語の使用もすべきだと思う。研究発表でも、英語で発表して要点を日本語で述べる、またはその逆があってもよいであろう。「(発表者が)英語の運用力を磨くための場とする」(静氏)のはお断りしたい気がする。
 この問題は、結局、「英語教師の資質とは何か」という大きなものに繋がってくるようだ。40年も前に、「英語教育」誌は英文を2ページ以上掲載すると売れ行きが落ちると聞いたことを思い出す。そういう状況は今でも変わらないようだ。
(浅 野 博)

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