言語情報ブログ 語学教育を考える

浅野式辞典:「カップアグリ」(カップアグリ)

Posted on 2010年8月5日

 老齢者は、「そんな題名のテレビ小説があったね」と言ったり、知ったかぶりの中学生ギャルは、「ああ、新しいカップ麺だよ。おいいしいよ」などと言ったりする。1週間も世間から隔絶されていたら、ついていけなくなるような新語の洪水だ。これは、カップ・アグリカルチャー(農業)のことで、ベランダや軒先で、野菜や果物が簡単に育てられる新製品だ。技術の進歩と喜ぶべきか。

浅野:英語教育批評:「入試の問題」について思うこと

Posted on 2010年7月23日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2010年8月号の特集は、「大学入試が変われば英語教育も変わる?!」である。「入試の問題」は古くて新しい問題である。「古い」というのは昔から同じような議論が繰り返されてきたからである。したがって、「なぜ繰り返されるのか」ということの追及が必要なのだ。「新しい」というのは、学校制度、カリキュラム、生徒の学力などが変化すれば、当然「新しい入試方法」を考えなければならないからだ。
(2)そういう観点から、冒頭の10ページに及ぶ座談会を読むと、何か物足らなさを感じる。座談会の参加者は、根岸雅史(東京外語大)・松沢伸二(新潟大)・佐藤留美(都立西高校)・豊田有紀(中央大附属中・高)・中野達也(都立白鴎高校)の5氏である。司会役でもある根岸氏は、テスティングの専門家と承知しているが、話題の突っ込み方がやや手ぬるい気がするのである。例えば、センター入試を話題にするならば、なぜ共通1次とその後のセンター入試が必要になったかという背景を検討すべきであろう。この座談会では、「センター入試の存在意義」は最後のほうになって取り上げている。しかも、入試センター自身が、「到達度試験とともに、選抜試験としての機能をもたせるために、平均点を60点くらいにしている」と説明していることを松沢氏が紹介している。
(3)松沢氏は、入試の現状について国際的な視野で研究していて、その知見を随所に紹介しているが、その発言が生きてこないのは、参加者のつっこみが不足しているからだと思う。これでは、同じ議論を繰り返すだけになる。「いまは推薦と AO 入試の割合が高くなって、問題になっていますね」(松沢氏)、とか「極端な話、英語の試験を受けなくても入れちゃうんですよね」(豊田氏)、という発言があるが、せっかく「新しい問題」で、しかも重要な話題が、この程度の発言で終わってしまっているのだ。「“学科のテスト”を受けないでも入れる」というのは、「極端な話」ではなく、かなり強い傾向になっている、という現状を分析してほしと思うのは私だけであろうか。
(4)現実問題としては、受験生世代の減少化にともなって、かなりの大学が学生をいかに集めるかに追われているはずである。そして、全体的に学力が低くなると、海外留学の機会があっても応募しないとか、大学へ行くならば、なるべく楽に入れ、楽に卒業できるところを選ぶとか、安易な道を選ぶようになる。これでは、選抜試験の意味などは、ごく一部の有名高校や大学に限られてしまう。そういう学校の出題者たちは、問題批判の声など聞こうともしない。自分たちの職場が安泰ならばそれでよいからだ。このことが入試問題解決の大きな障害になってきたと私は考える。
(5)私は、毎年センター試験の英語問題が発表になると、自分でまず解いてみるが、その出題技術は向上しているとは思えない。一言で言えば「欲張り過ぎ」である。1つの材料で、あれも試そう、これも試そうとするのは、受験生いじめに過ぎない。テストの素材は、読みやすくする配慮が大切だ。このことは座談会中でも指摘されていたが、もっと強調すべき問題点の1つだと思う。(浅 野 博)

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浅野:英語教育批評:「教育実習と英語教員の養成」を考える

Posted on 2010年7月17日

(1)去る6月19日に関東甲信越英語教育学会の月例研究会に参加した。発表は東京学芸大学の高山芳樹氏による「教育実習生の育て方を考える~大学における事前指導~」で、指導の実例などをビデオ録画で見ることができた。学芸大も教員志望以外のコースがあり、優秀な学生が必ずしも教員になるとは限らない事情があるようだが、私が知る限りでは、英語教員養成に関しては、スタッフもカリキュラムも恵まれている大学だと思う。
(2)高山氏は、「実習校の教壇に立たせる前に身につけさせること」として、次の3点を指摘する。
① 授業観察の視点 ② 英語教師に必要な英語力 ③ マクロに授業を組み立てる術
 いずれも重要なものだが、私はやはり「英語力」を第1に考えたい。しかも、これがなかなか定義しにくいものなのだ。今は、「英語力」というと、TOEIC 700点以上、といった基準が問題にされることが多い。しかし、それで十分とは言えないし、600点では英語を教えられないと断定はできない。最近は、小学校教員に理科系の科目が不得意な者が多く、生徒に悪影響を与えているという指摘があった。教員が教える科目に自信がないというのは大きな問題である。
(3)高山氏は、まず学生に50分の英語授業の実例を観察させるところから始める。その際、次のような観点を意識させる。「授業全体の感想を列挙し、場面を思い出しながら、自分の意見を論理的に組み立てる」「授業中のすべての営みには目的がある」「辛口批評家で終わらない」などの注意事項に異論はないが、私は、最初から少し欲張り過ぎていないかと、心配になる。教員志望の大学生でも、授業を見て、こうした留意点を実践するのはかなり難しいと思う。
(4)授業を「前時の復習」「新教材の導入」「音読指導」「言語活動」などに小分けして、それぞれのねらいと問題点を意識させるのも1つの方法だ。教師の実力や生徒のレベルによって、授業の問題点は違ってくるので、「同じ視点」に固執するのはかえって障害にもなることがあろう。特に教員養成大学/ 学部ではない処では、一定の単位さえ取得すれば教員免許を取得できるが、実習校での教員の指導と大学での指導とのギャップに悩む実習生も少なくないのである。
(5)高山氏は2時間近く話されたので、その要点を紹介するのは困難であり、誤解を招く恐れがあるので、以上で打ち切りたい。1つ言っておきたいのは、氏のパフォーマスンスが優れたものであることだ。最近は政治家のパフォーマンスなどは悪い意味で使われることがあるが、教師の良いパフォーマンスは必要なものである。学習者はそういう教師をモデルとして、発音、ジェスチャーなどを学んでいくからだ。今後とも、東京学芸大学が模範的な実践を進められることを期待したい。
(5)最後に、今回の高山氏の守備範囲を超えた問題を指摘しておきたい。それは、今後、教員養成はどうあるべきか、という大問題である。安部元首相のように、「教育基本法さえ改正すれば、悪い教員の首を切れるのです」といった考え方は困る。政治家は「教育は大事だ」と言いながら、実際は何もしないでいるのだ。なんとかしなければ、とやきもきする昨今である。(浅 野 博)

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浅野式辞典:「だめんず」(ダメンズ)

Posted on 2010年7月14日

 10年ほど前の漫画から、「ダメな男たち」のことを「ダメンズ」と言うようになって、今は女性たちが好んで口にするが、「勘弁してくれよ」と言いたくなる。“メン”の複数形が“メンズ”では、日本人がまともな英語を話せないのも無理はない。もっとも、その程度の英語しか英語教育は教えてこなかったということにもなるのであろう。お先真っ暗だ。

浅野式辞典:「うちゅうかいはつ」(宇宙開発)

Posted on 2010年6月30日

 世の中ワールドカップで大騒ぎしているけれど、幾多の困難を乗り越え、無事に地球に帰還した小惑星探査機「はやぶさ」のほうがはるかに大事じゃないのかね?ええっ!「宇宙開発」もサッカー用語だって?シュートがゴールの上を飛び越えていくことを「宇宙開発」と言うのか。サッカーはもうたくさんだよ。ワールドカップは2位でも決勝トーナメントに出られるけれど、「はやぶさ2号」は予算削減で飛ばないかもしれないとのこと。順番が狂っていませんかね。