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浅野:英語教育批評:「英語教育と日本語ブーム」

Posted on 2009年12月2日

(1)今は日本語ブームだと言われる。テレビのクイズ番組などでも日本語がよく取り上げられる。しかし、「日本語ブームは数年に一度到来する」と書いた月刊誌があった。2002年発行の『望星』十月号(東海教育研究所)で、発売は東海大学出版会である。ここは単行本も数多く出版している。
(2)この号の特集は「『日本語ブーム』の功と罪」で、冒頭は、方言詩人の伊奈かっぺい氏のインタービュー記事になっている。その最初の見出しは「『正しい日本語』が方言を圧殺する?」となっていて、伊奈氏は、方言は書き言葉には馴染まないことや、書き言葉に多い「共通語」が方言を駆逐する危険があることを指摘している。一方では、書き言葉としての共通語は「曖昧でないこと」が本来の使命のはずなのに、法律の文章などは拡大解釈が可能な言い方が多いとも述べている。
(3)伊奈氏は「方言は曖昧な表現の宝庫」として、1つの例として、東北弁の「もつけ」を挙げている。これは強いて共通語にすれば「愛すべきバカ」で、大阪の「アホ」に似ていると言う。さらに、「曖昧は日本の文化」だとも。これに対して「正しい英語」を教えようとしている英語教師はどういう反応を示すべきであろうか。「とんでもない」と一蹴してよい問題であろうか。
(4)この雑誌では、名古屋大学教授の坪井秀人氏が、「日本語ブーム」の「罪」を論じている。それは国語や英語における「朗読の勧め」であるとする。朗読のすべてを否定しているわけではないが、主体性がなく、文科省の方針に指導方針の裏に見られる保守的で反動的な空気を読めない教師への警告にもなっている。
(5)英語のような外国語を身につけようとしたら、「音声」は必須条件であろう。ただし、会話の練習をさせた後で、その英語が印刷されたテキストを無目的に音読させている英語教師は多いのではなかろうか。しかも、録音教材やネイティブ・スピーカーの後について読ませたりしている。これは本末転倒であろう。
(6)曖昧さを好む日本人には、議論は馴染まない。現在盛んな政治論議にしても、ノーベル賞受賞者やオリンピックのメダル受賞者などが、予算削減に反対して、抗議や陳情をしても、議論は挑んでいない。だれもが納得できるような説明もしない。そういう部分があっても、マスコミはほとんど取り上げない。こんな「日本語のあり方」をもっと意識して英語教師は毎日の授業に臨むべきであろう。(浅 野 博)

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