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浅野:英語教育批評:「英語教育と地方分権」のこと

Posted on 2009年12月10日

(1)「地方分権」は大きな政治問題になっている。「地方」があるということは、「中央」があるということになる。アメリカ合衆国(合州国と書くべきとの提案もあった)のように各州の自治が発達している国でも、連邦政府があって、国防、外交、犯罪などに対応してきた。しかし、日本の場合の「地方」はどうも「お金」と関係が深い。族議員がいて、選挙区にどのくらい公共事業を持ってこられるかを競ってきたからである。
(2)こういう政治が長く続くと地方自治が育たなくなることは容易に想像できる。「長いものには巻かれろ」で、権力に頼っていたほうが楽でもある。しかも、景気の良いときには、橋だ、道路だ、鉄道だと生活が便利になることが実感できた。どうにか政権交代が行われても、すぐに理想的な状態になることは難しいようだ。政府も地方も戸惑っているのが現状であろう。
(3)日本は、戦国時代はともかくとして、江戸時代以後でも明治維新や第2次世界大戦の敗戦など大きな変革を経験したのである。そうした過去の経験から何も学ぼうとせずに、今の政権交代だけに大騒ぎするのは愚かであろう。少なくとも敗戦によってアメリカから与えられた民主主義がうまく根付かなかったのはなぜかをよく検証する必要があるはずだ。
(4)こういう観点から英語教育を考えてみると反省すべきことは多い。英語教育界では新しいものばかりを追いかけて、過去を反省したり、過去から学んだりすることに欠けていることは、以前にも指摘した。ここでは個々の学校と授業の関係を考えてみたい。
(5)授業は、生徒の実情に合わせて教材や指導法を選ばなければならない。一方、日本人であれば、日本のどこに住んでいようとも、教育の機会は平等に与えられるべきという大きな前提がある。ただし、文部省はこれを拡大解釈して、教育内容や方法まで画一的でなければならないと考えてしまったようだ。しかも、ここ十年間ほどは、「学校の多様化」を推進しながら、「英語の授業は英語で行うことを基本とする」と言ったりする。
(6)こういう矛盾に鈍感な英語教師が多すぎるのではないか?目の前の生徒を一番よく知っているのは自分だという自信を持って授業をすべきであるし、「長いものには巻かれろ」という態度では、迷惑するのは生徒だということを自覚しなければならないと思う。(浅 野 博)

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