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浅野:英語教育批評:「英語教育と国際理解教育」のこと

Posted on 2010年2月4日

(1)英語教員には、「国際理解教育」を引き受けるのは自分たちの使命だと考えている人が多いように感じる。意地悪く言えば、どうして英語教育は、何でもかんでも引き受けようとするのであろうか、と私は疑問を覚えるのである。一方では、「受験教育」といったものが存在していて、国際理解教育どころではない過酷さである。また、近くの外国人を連れてきて、「ありがとう」「さようなら」といった言葉を言ってみる程度が国際理解だと錯覚しているのではないかとさえ思えるときがある。

(2)私は50歳近くなって、ゴルフを始めたが、経験のある周囲の人に「もっと力を抜いて!」とよく言われた。「しっかり握って」とか「脚を踏ん張って」というような指示はわかりやすいが、「力を抜く」というのは実行が難しいのである。イチローがあの体格で、メジャーリーグで記録を出せるのは、「力を抜くことを彼が知っているからだ」という説を聞いたことがある。しかもイチローは、打つときのヘッドスピードは他の大打者に負けないほど速く、外野からの返球はしばしば走者を刺すほどすばらしい。一瞬の集中力が働くのだ。

(3)日本人は、「頑張れ!」と言うのが好きだが、よく知られているように、英語では多くの場合、”Take it easy!” と言う。「力を抜け!」に当たる言い方だ。私は日本の英語教員に「力を抜け!」と言いたい。「力を抜く」ことは、決して「手を抜く」「サボる」ことだけを意味するのではない。一息ついて周囲を見渡せば、生徒や同僚の本当の姿が見えやすくなると思う。「国際相互理解」といった大問題は、がむしゃらに取り組むだけでうまく解決できるものではないのだ。

(4)「国際化」はスポーツの世界では、早くから経験していることだ。国内のチームに外国人が加わった歴史も短くはない。代表的なのは大相撲だ。外国人力士を加入させるなら、まず環境整備が必要で、単に「国技だ」「伝統だ」と言っている場合ではない。もちろん、外国人に迎合しろ、ということではない。しかし、昨今報道されている横綱の暴力事件とか理事選挙は問題外にしても、外国人受け入れのための環境改善がなされてきたとは決して思えない。

(5)海外で試合をする選手たちは、まず勝つことを意識するし、日程の関係からも、対戦する選手や周囲の人たちと交流する余裕はなかなか無いであろう。だとすれば、易しいことではないが、国内で試合をする選手や観客は、国際交流ということをもっと考え、実践すべきだ。学校での「国際相互理解教育」は、すべての教科を横断するような広範囲な視野に立って、実践することが望ましいのだと思う。(浅 野  博)

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