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浅野:英語教育批評:「英語嫌いをなくすこと」を考える

Posted on 2010年2月23日

(1)「英語教育」2010年3月号(大修館書店)は、「英語を嫌う生徒にどう向き合うか」という特集をしている。どんな教科でも、その教科を嫌う学習者がいたら、その原因を探り、対策となる指導技術を工夫し、実践するのは当然と思われていよう。したがって、こういう特集を歓迎する教師は多いと思う。しかし、私は「英語」の場合は、少し違った視点が必要ではないかと考えている。大げさに言えば、テロの問題と似ているのだ。
(2)「無差別に殺人をするテロはけしからん」という見解には反対しにくい。そして、その根拠地を除去するために、アメリカが、イラクやアフガンに攻め入るとなると反対論も強くなるが、そもそも「なぜテロが起こるのか」という根本問題が抜けている議論がほとんどではなかろうか。
(3)「英語嫌いがいることは困ることだ」「だから英語を好きにするような教え方を実践しなければならない」には反対しにくい。しかし、これは英語を学ぶ、または教えるのは当然ということを前提にした発想だ。「なぜ英語なのか」は問題にならないのであろうか。もっとも、この問題は30年以上も前に、中津遼子氏が『なんで英語やるの』(文春文庫、1978)で提起したことがある。しかし、このタイトルの問いに対する答は出ていないと私は思う。彼女の疑問は、「なんでそんな中途半端な教え方や学習しかできないのか」という問いかけだったからだ。
(5)この「特集」の中で、他と違った発想をしている記事は、横田禎明「英語嫌いに『英語を楽しませようとする試み』が成功しないメカニズム」だ。「原因を突き詰めよ」とか「『楽しませる』より『分からせる・成績を上げる』」といった小見出しは同感を呼ぶが、あまりにも「私は英語が大嫌いだ」ということを強調していて、後味が悪いのである。大学受験生に英語を教えていると言われる筆者は、立派なホームページを開設していて、そこでも「英語嫌い」の自説を繰り返し主張している。教師にはいろいろなタイプがあってよいと思うが、私にはどうもついていけない感じがする。
(6)英語が好きで得意な教師の「私について来なさい」と言わんばかりの強引な授業も好まないが、ある歌手の歌を聴いた後で、「私は歌うのが大嫌いなのです」と言われたような後味の悪さを、横田氏の姿勢に感じるのである。それは現役を引退した者との世代の違いのせいだと言われそうだが、そうならば、若い現役の先生方の見解を聞けるのを待つよりない。(浅 野 博)

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