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3.「青春」の作者ウルマンの生い立ちと試練

Posted on 2010年6月14日

ウルマンの出生地であるドイツ南部のヘヒンゲンは,その住民の4分の1がユダヤ人であったが,今ではユダヤ人はひとりもいない。結婚と職業に制限を受け,住まいもゲットーに追い集められていたという。

両親は迫害を恐れてアメリカへ渡ったが,差別意識の高い南部へ住まざるを得なかった。ついに落ち着いたバーミングハムは中でも最も黒人差別が激しい町で,初めて黒人がアラバマ大学へ入学したときは,たったひとりの学生を守るため州兵が出動したことはご存じの方も多かろう。

この町でウルマンが心がけたことは,ともかく差別がないように,慈善事業に,無償の仕事に熱心に務めることであった。それは彼にとってはユダヤの神との約束であった。黒人たちのための小学校,高校を作るためにも努力した。ウルマン・スクールとして黒人用小学校,のちに高校が今でも残っている。

ウルマンは,結婚,職業,住居の差別を受けたことは父母から聞かされ,肝に銘じていたろう。なんとしてもユダヤ人の子や孫にそのような差別を受けさせてはならない。そのために何をなすべきかを考え,(黒人)差別のない社会,貧しい人々の子弟の教育に彼は努力した。自分の仕事である金物店は放っておいても,教育委員会,ユダヤ教会などの奉仕に尽力した。自分は14歳までしか学校教育は受けていなかったが,教育にはたいへん熱心で,貧しい黒人たちが小学校教育を受けられるように,続いて無償の高校教育を受けられるように意を尽くした。

 バーミングハムへ移る前のナチュズでは,まだ40歳前後の若さであったが,市参事会員や教育委員会委員といった役職をたくさん務めていた。
(村田 年)

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