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浅野:英語教育批評:「日本語と英語の違い」について

Posted on 2010年8月17日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2010 年9月号の特集は、「小さな疑問からひもとく日本語と英語の大きな違い」である。日本語と英語では語族が違うから、「大きな違い」があることは、少しでも英語を学んだことがあれば、実感があろう。英語についてどういう疑問を抱くかは、学習者の年齢や学習段階によって異なるであろうが、この特集の「小さな疑問」の設定には、それこそ疑問を感じるものがある。
(2)例えば冒頭の、瀬戸賢一(大阪市立大)「雨の表現がたくさんある日本語は風流か?」だが、こういう問い方は、著者は「風流ではない」と考えていると予想させるのが普通であろう。そういう意図がないのであれば、「日本語には雨に関する表現が豊富だが、それはどういう文化的な意味があるのだろうか?」などの方が、素直で分かりやすい。英語教師を相手にした記事でも、学習者の視点を軽視すべきではない。
(2)阿部圭子(共立女子大)「日本語と英語、『説得』に向いている言語はどちらか?」といった問いかけは、「日本語よりも英語の方が“説得”に向いた言語だ」といった印象を学習者に与えかねない。英語教師の中にも、「英語は論理的だが、日本語は情緒的だ」と考えている者がいるが、もしそれが正しければ、日本では哲学や数学は発達しなかったであろう。違う言語にはそれぞれ違う特徴があるが、そのことは、ある言語は、他の言語より優れている、といった価値判断を示すものではないはずだ。
(3)阿部氏は、ある問題を持った人物が、誰かに助言を求めるような場合、相談された側は、どういう対応をするか、といった場合の英語または日本語の実例を分析している。それ自体は貴重な資料であろうが、氏の結論は言語の問題と離れてしまっている。結論の一部には、「…その内容や回答者の立場などには明らかに日米差が見られ、これは言語的特徴というよりは、背景となる社会やそこにおける様々な規範により助言談話とうものが規定されているためと考えられる。」と書いているからだ。
(4)町田健(名古屋大)「英語で否定文を作るのにいろいろな方法があるのはなぜか?」という問いも、「日本語の否定の方法は少ない」という印象を与えてしまうであろう。日本語を学んでいる外国人には、「…と考えていないわけではない」とか、「君が行きたくないという気持ちは理解できなくもない」といった表現はとても難しいらしい。漢字による否定語が入るともっと複雑だ。「相手の非論理性を否定できない自分の無策ぶりに絶望した」など、日本語の否定表現も実に豊富ではないか。
(5)1970年代になって、米国の大学に留学した人たちが帰国すると、「はっきりものを言う」人たちが増えたが、先輩や上司に対しても失礼な発言があったりして、批判されたことがあった。この特集の記事には、Gregory King(中部大):Is it true that Americans are direct? があるが、最後に、“We Americans are direct, but we are also polite.” と述べている。他人への配慮が必要なのは、英語圏でも日本語圏でも同じだということを忘れないようにしたい。(浅 野 博)

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