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浅野:英語教育批評:「“ことば”から考える諸問題」について

Posted on 2010年9月12日

(1)今回は、日常的な言葉の問題を再考してみたい。時あたかも民主党党首の選挙戦の結果が出ようという頃で、その結果に国民の関心が集まっている。テレビ番組で、立会演説会を聞いた人に感想を尋ねていたが、「小沢さんは迫力があるね。なんかやってくれそうな感じがする」と言っていた。“国民感情”というものはそんなものであろうと思う。あるラジオ番組では、「国民は“クリーンな政治”といった言葉に騙されてはいけない、小沢元幹事長は裁判で有罪の判決を受けたわけではないので、犯罪人扱いをするのは全く間違っている」と評論家が述べていた。

(2)法律論ではそれが正しいのであろう。しかし、“国民感情”というのは、理屈では説明できない“好き”か“嫌い”か、という気持ちに左右されることが多いのではないかと思う。音楽好きのロックファンの中にも、「この歌手は好き」「あの歌手は嫌い」といったことはよくある。ただし、日本人の傾向として、「他の大勢の人が好きならば、好きになる」ということはよくあることだ。つまり「民主主義は国民が主体」と言いながら、「世論」はマスコミの報道などに誘導されて作られているのである。

(3)そういう意味では、マスコミの責任は重いのだが、近年はマスコミ同士が言い争うことがある。特にラジオ番組はよく新聞批判をする。世間では、「朝日新聞」は左翼系で、「産経新聞」は右翼系と思われてきた。しかし、「管政権批判」では一致した批判をしたりするので、有権者はますます迷うことになる。情報化社会では、「情報の是非を判断する力をつける教育」が必要なのだが、それが欠如しているのが現状ではないか、と思う。

(4)私みたいな年配者は、戦時中の「大本営発表」にさんざん騙されたから、「報道はまず疑う」くせがついている。疑うばかりでは得るところがないから、なるべく多くの情報を集めて、是非の判断をするようにしている。そうすると、インターネットなどの情報も有用なものと無用なものとの区別がつくようになる。完全に自信を持てるようにはなれないが、上記のような教育を受けていない若者たちよりはずっとましではないかと思う。

(5)日本の教育では、日頃は教師主導の指導をしていて、夏休みになると、「何か自由研究をしなさい」といった宿題を出す。これでは困るのは生徒だ。小泉元首相は、「官から民へ」というスローガンの下、規制緩和をして、民間の活力に期待したが、それまで「お上(おかみ)」に頼って商売をしてきた企業などは、勝手な行動をしだして、経済混乱を招いてしまった点がある。自治権というのは、ただ与えればよいのではなく、自治が行えるような基礎力を付けておかなければならないのだ。私たちは、もっともっと日常の言葉を大事にして毎日を送るようにしたい、と思うことしきりのこの頃である。(浅 野 博)

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