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浅野:英語教育批評:「英語力の比較」を考える

Posted on 2011年6月8日

「英語力の比較」を考える
(1)昨年の8月に、吉田愉美子さんから、私のブログに関連して、「スウェーデンの友人は、英語圏でもないのに英語を上手に書いたり話したりする。参考になるのではないか」との趣旨のご指摘を頂いたが、その後だいぶ時間が経ってしまった。お答えにはならないかも知れないが、この問題を考えてみたい。

(2)ただし、私は、スウェーデンの実情についてはほとんど知らないので、一般論として、アメリカ合衆国の場合と日本の場合を比較するときの問題点について考えてみたい。よく聞かれる声に次のようなものがある。テレビ画面を見て、「あのアメリカ人は、日本に来て2年にもならないのに、日本語を話すのがとても上手だ。私たちは10年以上も英語を教わってきて、日常会話もできない」。

(3)しかし、そのアメリカ人が実際にどういう勉強をしてきたのかは、簡単には想像できない。「アメリカ人は集中的にものごとをやるけれど、日本人は集中力に欠ける」ということもよく指摘される。それが事実だとしても、「だから日本人は英語ができないのだ」と結論はできないであろう。日本人でも英語を話すのがうまい人は決して少なくはない。同じ外国語を学校で10年以上も学ぶというのはアメリカではまず考えられない。アメリカ人も(母語としての)英語を小学生から学びはするが、特に大学で学ぶのは、論文を書くのに必要な「書き言葉」としての英語だ。(話を単純化しているが、移民の多いアメリカの実情はもっと複雑である。)

(4)どこの国の人でも、外国語を学ぶにはかなりの時間をかけるはずだ。しかし、その大部分は、「自分の努力に頼っている」のではなかろうか。したがって個人差が生じるのは避けられない。自分はどうも話すことは得意ではない、と思ったら、読むことや翻訳に熱中すればよいのだ。他の選択肢を選ばないで、「英語が話せない」と悩む日本人が多いのは異常だとさえ思われる。

(5)しかしながら、実際は高校でも大学でも、入学試験ではほとんど英語が課されるから、選択する余地がないのも確かだ。したがって、「日本人と英語」の問題を解決するためには、少なくとも「制度」「教え方」「学び方」の3つの観点から考える必要がある。そして、中、高生が個人として責任が持てるのは、「学び方」の面だけであろう。その場合でも、教師が「よく勉強しろ」と言うだけではダメだから、教室でも「英語の勉強の仕方」を教えることが必要となる。  

(6)また、いくら個人が頑張っても、「制度が悪い」「教師の教え方が悪い」ということになれば、英語の力もつかないであろう。その他に、私の持論である、「日本における英語学習環境の破壊」という現象がある。その1つは、安易なカタカナ語の氾濫である。こうした問題を機会あるごとに私のブログで考えていきたい。(浅 野 博)

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