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「英語の授業を英語で行うこと」を考える

Posted on 2012年3月19日

(1)「英語教育」(大修館書店)の2012年4月号の特集は「英語で授業を進めるために」です。「英語を教えるのに英語を使え」という方針に私は条件付きの賛成です。したがって、条件付き反対でもあります。その条件については、特集の冒頭の記事で金谷憲氏(東京学芸大特任教授)がまとめてくれています。① 教材問題 ② 教員養成・研修問題 ③ 同僚問題 ④ 入試問題の4点ですが、「教育実習」、「教員の同僚性」、「入試問題」などについては、私はこのブログで論じてきました。

 

(2)高校では中学校と違って、学校単位で検定教科書を採択できますが、科目数が多く、学校によってレベルも違いますから、その学校の教員同士がよく話し合わなければ効果も期待出来ません。1学年で扱う科目として、「英語コミュニケーション基礎」「コミュニケーション英語Ⅰ」「英語表現Ⅰ」「英語会話」がありますから、多くの場合、複数の教員が分担しなければなりません。したがって、担当者同士のコンセンサスを得ることが重要なわけです。

 

(3)また金谷氏は、教員養成に関しては国が法律で決めるものなので、「大学院レベルへのシフトを前進してもらいたい」旨の主張をしています。英語教員の学歴を高くして大学院で2年間は勉強をさせるとしたら、大学院自体に英語教員養成に必要な指導力を持つ教員が十分にいるのか、という疑問を私は拭いきれません。東京学芸大学はそういう点では恵まれた数少ない大学だと思いますが、ほとんどの教育大学・大学院は必ずしもうまく運営されていないという噂を耳にします。

 

(4)“日本人が英語を自由に話せるようにする”ためには、いつも良いモデルが耳に入り、英語が話せるような環境が必要です。文科省は、「そのために ALT を配置しているし、海外経験の豊かな英語の出来る人材を臨時講師として雇えるようにもしている」と答えるかも知れません。しかし、週4,5回の授業ではとても十分な言語環境とは言えないでしょう。一部の進学高校では、“ALT に3学年は教えさせない”などの現象もあります。“外国語を話す力”は、使う機会がなければ急速に失われるものです。文科省の方針は、実現性のない目標だけを押しつけて、“英語が話せないという劣等感に悩む日本人”を増やすだけの愚策と言わざるを得ません。

 

(5)今回の特集では、中学、高校の実践報告的な記事が9編ありますが、そこで使われている英語に疑問を感じるものがあるのです。例えば、「英語で授業FAQ」という題の記事の執筆者は、“FAQ”を「よく尋ねられる質問」の意味で使っているようです(p. 13)。失礼ながら、それを英語で言えるのでしょうか。英語の表現では、“誰が、誰に対して質問するのか”を明示するのが普通です。しかも、この記事には、”Courage” と題する課を読んで、“生徒に作らせた詩”が紹介されていますが、それは、”Courage is starting something new.” とか、”Courage is keeping my dream.” のような英文です。これで英語を教えたことになるのか甚だ疑問です。もっと一般性のある基礎的な表現を覚えさせることのほうが先決でしょう。他の記事では、教師の使う英語として、”We have review for words or phrases.” とか、”I ask you two questions in Japanese, English, or, How do you spell ~?Answer two questions.” といったものもあります。(p. 29)

 

(6)日本人の英語教師が“完全な英語”を話すことは不可能なことが多いのは認めざるを得ません。したがって、生徒の英語を許容するだけでは、「英語(特に“話すこと”)を教えたこと」にはならないと思います。例えば、生徒は、「” I’m very tired.” は“とても疲れ”と訳すのですか、それとも“とても疲れている”と訳すのですか?」といった質問をするものです。こういう場合は、日本語できちんと説明してやるべきでしょう。9編の実践報告にはこうした点への配慮がほとんど見られないのを残念に思います。(この回終り)

(浅野 博)

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