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スピーキングの指導

Posted on 2012年6月27日

(1)中学や高校で英語を学ぶ日本人の学習者のほとんどが、「英語を話せるようになりたい」と思っているようです。しかし、彼等の望みがかなう可能性はとても低いのが一般的でしょう。その原因はどこにあるのでしょうか。まず英語教師が反省する必要があります。十年一日のように受験問題ばかりやらせる教師もいれば、発音などお構いなしに、訳読式の教え方しかしない教師もいるからです。しかし、現在の学校教育のような制度では、教師だけに責任を負わせるのは酷な面があると思います。

 

(2)教師は指導方法に迷ったら1つの手掛かりとして、過去の文献に当たってみることが必要でしょう。私は、馬場哲生編著『英語スピーキング論』(河源社、1997)を推薦したいと思います。これは、「英語教育研究リサーチ・デザインシリーズ」の一冊で、この「シリーズ」については、以前にも言及したことがありますが、単に指導法を説いている本ではなく、ましてや「会話のテキスト」などでもありません。

 

(3)最初の4つの章のタイトルを見るだけでも、その意図が推察できますから、ここに紹介しておきます。第1章 本書の背景、第2章 英語スピーキング―教室からの問題提起、第3章 スピーキングについて何が言われ、何がわかっているか Ⅰ 研究概観、第4章 同Ⅱ 個別研究の紹介(以下略)

第2章の実例としては、「ある高校で教えているL先生(日本人)が、顧問をしているバレーボール部の1年生から、「M先生の発音がひどい」と訴えられて、

L先生は、「M先生の英語でもアメリカ人に通じるのだから、きれいな発音でなくても、話す内容が大事だよ」といった趣旨のかなり苦しい答弁が紹介されています。こういう例は少なくないでしょう。

 

(4)近頃の高校生は、映画やテレビで、英語を母語とする人の発音をよく耳にしていますから、日本人的な英語の発音にはすぐに気づくのです。しかし、「発音よりも内容のほうが大事だよ」ということでは納得してもらえないでしょう。日本の大学で教えているアメリカ人の教授から、「日本人の同僚には、英語を話す場合は発音なんかより中味が大切だと言う人がいるけれども、“相手に我慢を強要するような会話”は、真のコミュニケーションではない」と私は言われたことがあります。やはり“通じやすい発音”を心がけるべきだと思います。

 

(5)中学校(英語)の「学習指導要領」では、「英米の標準的な発音」とあるだけで、「どういう発音が標準的なのか」については説明がありません。一方、「日本アジア英語学会」の会員の中には、「日本人の英語はアジア諸国で通じればよいので、英米人を相手にする必要はない」といった極端な意見の人もいます。日本の英語教育の効果が上がらないのは、関係者の見解がばらばらで、基本的な事項についてもコンセンサスが得られていないことにあると私は考えています。

 

(6)都会に住む生徒は、英会話学校に通う例も少なくないようですが、そのような生徒が、「会話学校では結構話せるつもりだけれど、家に帰ると全然ダメだ。何をしていいかも分からない」と不満を漏らしているのを聞いたことがあります。“英語を話す力”は機会がないと急速に衰えることも事実のようです。雰囲気というのは、“話す”場合ばかりでなく、“聞く”場合にも重要で、私はアメリカに滞在中は映画の英語が結構分かったのに、日本に帰ったら字幕に頼らないとよく分からないことが多くなりました。それでは、日本語環境の中にいる生徒は家では何をしたらよいのでしょうか。

 

(7)私が薦めたいのは“音読”です。教科書や副読本の中で興味を感じた話を音読するのです。その話の録音テープなどがあれば、よく聞いて真似をしてみるのもよいでしょう。英会話のテキストを暗記することは薦めません。例えば道案内の会話などは、違った場面ですぐに応用できるものではないからです。英作文の時間の和文英訳をしっかり勉強したほうがましです。最近は、中学校の検定教科書でも、”Well….” とか、”Let me see….” のような繋ぎの言葉を教えていますが、私は賛成出来ません。そんな言い方を覚えて使うことは特に初心者には必要ないと思います。(この回終り)

(浅野 博)

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